2007年4月9日(月)「しんぶん赤旗」
諫早湾閉め切り10年 第1部
沿岸漁民の叫び(4)
年2千万稼げた海は
(写真)定置網をあげる松永秀則さん
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小長井漁協の理事、松永秀則さん(53)の自宅は、諫早市小長井町の小高い丘にありました。南に面した庭からの見晴らしがすばらしい。
陽光に照らされた諫早湾の青い海面、それをはさんで対岸の島原半島が迫り、そこに雲仙・普賢岳の天に突き出た姿が正面に見えます。その景色は、今も昔も同じです。
しかし、海の環境や漁業は激変しています。
14年ゼロ
松永さんは、潜水士の資格を持つタイラギ専門の漁民でした。タイラギは、三角定規を重ねあわせて膨らませたような大型の二枚貝。大きな貝柱が美味で、すしネタなどに使われます。
そのタイラギが諫早湾でたくさんとれました。
「年に二千万円くらい稼げたとです」
それが、一九八九年に干拓工事が始まるととたんに影響が出ました。小長井で八八年には一千六百七十一トンとれたタイラギが年々減少し、九三年にはゼロになりました。以降今日まで十四年もゼロがつづいています。
だからといって松永さんらはタイラギ漁をあきらめているわけではありません。松永さんが組合長のタイラギ関係者の組合「新泉水海潜水器組合」(泉水海は諫早湾の別称)も解散せずに毎月独自のタイラギの生育調査を続けてきました。
諫早湾にタイラギがいなくなったわけではなく、成長できずに死んでしまうのだ、といいます。
「開門して潮流をもどせば、干潟の浄化作用も改善し、タイラギもかならず回復する」と確信しています。
実際、農水省が二〇〇二年に実施した一カ月の開門調査でも、「アサリが死なずに、翌年の水揚げが増えたですから」。
アサリも
話を聞いていたアサリ専門の田島武明さん(53)が補足しました。
「昔は、海に立てたさおがこんなふうにぐらぐらするくらい流れが速かとです。今はびくともしよらんばい」
田島さんがさおに見立てた人さし指が左右にはげしく振られました。
小長井では、九六年ころからアサリに影響が出始め、九七年の閉め切り以降、六月から十月にかけて赤潮や低酸素が頻発し、アサリが死滅するようになった、といいます。
アサリの対策事業で干潟に海砂をまく覆砂が行われています。
「最初のころは覆砂すれば三年もちよりましたが、今は一年でだめです」と、田島さんはいいます。
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