被爆体験を語る

 隠された核被害 夏にも締約国会議
 
  五島久嗣 
   元日本共産党長崎県委員会 書記長・副委員長

 

島原半島にも“死の灰”

 広島、長崎への原爆投下から77年。国連では核兵器禁止条約第1回締約国会議が6月に開催され、被爆者援護についても話し合われます。核兵器廃絶運動は隠蔽(いんぺい)され続けた核兵器の非人道性を明らかにするとともに、被爆地域拡大のたたかいでもあります。長崎では原爆投下当時、風が西から東に吹いており、放射性降下物は島原半島にまで達していました。長崎市内に住む五島久嗣(ひさし)さん(86)が手記を寄せました。

 

 私の自宅は長崎市の片淵町にありました。原爆直下の松山町からは金比羅山を挟んだ反対側です。原爆が落とされた時は家じゅうの窓ガラスが割れてしまったそうです。

 

 保険代理店の外交員をしていた父・五島国人(くにと)は出先の鍛冶屋町で、長兄の尚一(中3)は鳴滝の長崎中学校で被爆しました。長兄は前日まで勤労奉仕で浦上の兵器工場に行っていたそうです。もしも1日違っていたら、生きていたかどうかわかりません。

 

 かわいそうなのは、いとこの淑子(よしこ)さんです。淑子さんは青山学院の女学生でした。東京は空襲で危ないと、前年1944年から親戚のいる長崎に疎開し、私の家に身を寄せていました。割り算などの勉強も見てくれ、かわいがってくれました。

 

 8月9日の朝10時頃、淑子さんは城山小学校近くに住む祖母の所(原爆中心地から約400メートル)へ行くと言って家を出ました。

 

 活水高等女学校への転校手続きの書類に判子をもらうため、市電に乗って松山町方面へ向かったと思われます。午前11時2分。淑子さんはまだ電車の中だったのか、あるいは松山町の電停から祖母の家へ歩いて向かう途中だったのか。行方は全くわかっていません。

 

 祖母の家も一瞬のうちに原爆にやられました。祖母と一緒に住んでいた叔母の須磨子さんは、この日の朝何かしらの用があり、後追いする幼い息子を「危ないから」と置いて出たそうです。そこに原爆が投下されたのです。

 

 須磨子さんが家に戻ると、祖母と須磨子さんの夫、息子の3人は庭で亡くなっていました。須磨子さんは「せめてあの子を連れて出たなら」と、それはもう悲しんだそうです。

 

母や兄と疎開

 私はその時、爆心地から約37キロに位置する島原半島の南東部、現在の南島原市北有馬(父の出生地)に、母・チエノや次兄の基(もとい、国民学校6年生)と一緒に疎開しておりました。国民学校4年生でした。

 

 午前11時頃だったと思います。裏山に爆弾が落ちたような音がして、私と次兄はびっくりして外へとび出しました。しかし、何もありませんでした。そのあと昼近くになる頃から、白と黒のススの混じった燃えかすのようなものが、空からどんどん降ってきました。私と次兄は、それを1時間以上、しっかりかぶったと思います。

 

 それが放射能をもったものとは全く知りませんでした。

 

 母は、私が中学の時に突然、脳膜炎を発症しました。忘れもしない4月28日の夜。翌日は唐八景で恒例のハタあげ大会の日だったので、よく覚えています。

 

 夜中に「母ちゃんが死にそうだ」と起こされ、驚いて跳び起きました。看病もむなしく、母は約1カ月後に亡くなりました。

 

 体が弱く病気がちだった次兄は29歳の時、腸閉塞で亡くなりました。父は79歳の時に胃がんで亡くなり、長兄は膀胱(ぼうこう)がんや大腸がんを患い82歳で亡くなりました。

 

 昨年、広島の「黒い雨」高裁判決を知り、長崎の「被爆体験者」も被爆者と認定するよう国に求める署名に私も署名しました。その時、あの日疎開先で灰のようなものをかぶった記憶がよみがえりました。

 

被爆者手帳を

 次兄が亡くなり、私だけの体験ですから、誰にも話したことはありません。しかし、ハッキリと覚えています。島原半島にも“死の灰”が降ったのです。今は、私も原爆被害者なのだと確信しています。島原には他にも同じような体験をした人がいるのではないでしょうか。

 

 私は今年86歳になりました。50代で脳梗塞を、3年前に心筋梗塞と心不全を発症し、一昨年には胃がんと診断されました。もう時間がありません。

 

 広島高裁の判決は、原爆の放射能による健康被害の可能性について否定できなければ被爆者に当たると、内部被ばくについても認めました。

 

 政府には、一日も早くすべての被爆者を被爆者と認め、被爆者手帳を交付してほしい。そして唯一の被爆国として核兵器禁止条約に参加し、世界中から核兵器をなくしてほしいと強く願っています。