被爆体験を語る

原爆体験は「人間の仕業」でした
 
  大塚一敏  被爆年齢 10歳
   元日本共産党長崎県委員長  元日本共産党中央委員幹部会委員
2007・8・8 
長崎ふれあいセンターでの講演

 みなさん、おはようございます。大塚一敏ともうします。
 若いみなさんに、話をきいてもらうことは、被爆の実相が次の世代に継承されることを信じることだし、被爆者に生きる希望をあたえるものです。被爆したのは10歳と10ヵ月でした。被爆の瞬間は、爆心地から2.8`でした。11日に、親戚の安否をたずねて、残留放射能が渦巻く爆心地の方向とは知らぬまま、ごく近くまでいきました。それを、被爆体験として人前で話すのは初めてで、被爆者としての声が、みなさんに届くかどうか、不安はあります。けれども、「原爆は人間として死ぬことも、人間として生きることも許さなかった」こと、それが、自然のできごとでなく「人間の仕業であった」ことを知ってほしい、そう願いながら、お話しいたします。

(1)被爆まで

 空襲警報解除(米軍機は飛び去ったサイレン)で、友だちと二人で学校の高い塀に登ってセミを捕っていたとき吹き飛ばされたのです。
 その瞬間は、稲光いなびかりの親玉のような、ビカーッという光が私に向ってきたこと、どどどっーという凄い地響き、黄色い暴風に巻き込まれ、なにも見えなくなりました。なにが起こったのか分からず、考えることもできず、ただ、ただ、呆然としていたように思います。あの不思議な瞬間の光景を、言葉で表現することはできません。

 気がついたときには、私のからだは首から下は、トタン、瓦、木材、家具・・いろんなものに埋もれていた。あたりが静かになったとき、一緒にいた友達が目の前の家に駆け込んだようでした。とたんに両脇をコンクリート建てに支えられたのが、こらえきれないように、ゆらゆらっと潰れました。
 大人たちが、どこからか現れはじめ、私が近づくと噛み付くような剣幕で怒鳴られ、強い力で押しもどされ、アッチへ行けと追い立てられました。
 落ち着いてから、消息を追ったのですが分かりません。足が早く短距離の選手で学校の誉れでした。いつの頃からか私は、仲の良い友達を見捨てたに違いないと思い込むようになりました。いや、大人たちがアッチへ行けと、追っ払ったのがいけないんだ、とも。

 東京、福岡に仕事で15年いましたが、8月9日にはかならず戻ってきて、その場(塀)にたちます。いまは、建物は壊されてありません。
 普段は忘れているのですが、8月.9日が近づくと、やっぱり“自分だけ逃げたんだな”という気持ちになり、62年たっても気が滅入ります。  

 わたしの自宅は学校の近くでしたが、街は変わりはて、知らない土地に迷い込んだようでした。本能的というか、おろおろと歩きまわって、やっとのことで、建物疎開で住宅が強制的に壊された広い空き地にたどりつきました。そこに、紙問屋の土蔵があって目印になりました。壊れないので、ポツンと放置されていたのです。
 わが家の木造2階建ても、あたり一面の家も、屋根は吹き飛び、床はめくれ、家具は散乱、壊滅。太陽の光で床下の防空壕まで見えました。家から這い出していた母親から、「カズトシ、足はどげんしたとね」と怒鳴られました。どうしたのか?

 わたしは裸足、足の裏はガラスでズタズタ、ヒザも火傷、気がつきませんでした。言われてはじめてズーンと痛みが襲ってきました。全身も打撲・・。手当ても出来ぬまま、アロエとか蓬(よもぎ)とかを擦りつけていると、午後になって長崎県庁から火がでて、長崎地方裁判所にうつり、やけ崩れて崖下一帯に延焼し、わたしの家も焼けました。

 どこに逃げればいいか分からず、6歳下の弟の手を引いて山手のお墓に逃げました。夜も街の中心部が空まで明るくなるくらいの炎をだして、次々に燃えひろがり全滅するのを、なんとも思わず、ただ見ていました。あんな状態を虚脱というのではないか。その夜は、逃げのびた大勢の人が、お墓を宿にしたのです。

 翌日、お墓から逃げ出し、戦死した父の長兄をたよって、三菱造船所の上手に逃げました。街中焼け爛れて、道路は馬の死体や電信柱で塞がっているし、たどりつくのもやっとだったのに、「三菱製鋼所が新型爆弾でやられたらしい、義春(父の弟)探しに行くから、お前も戦死した父親の名代として一緒にこい」と、同行を命じられたのです。足の裏は痛いし、地面はまだ熱いし大変でした。       

 工場には近寄れません。「義春の家をさがすぞ」と声がかかります。それが、爆心地方向だとは大人たちも、しばらくは知りませんでした。途中の神社や学校の崖下には防空壕がたくさんあって、上半身は裸、顔はまっくろの怪我人ばかりで、のぞくと白い目でギョロリと睨まれるのです。

 大人たちに「けが人に義春はおらんか、よくみとけ」とか、「はやく歩け」と大声でどなられて、せっぱつまって、人や馬の死骸をみないように足元ばかりみて、歩いたように思います。

 突然、大人たちがたちどまり、黙ってあとすざりし、わたしに突き当たりました。大きな防火用の水槽のなかに人が座っているのです。上半身の着物を剥かれた母親が、乳飲み子を、おぶったままの格好で、風呂に入ったように、ゆらゆら、していたのです。眼をそらすと、ゆらゆらと、こっちに向きを変えるような気さえしたのです。血もださず、傷もなく、太陽で汗ばんでいるようにさえ見えました。

 怖くて肝が潰れる思いでしたが、それだけは鮮明におぼえています。やっと、自宅の跡らしいところにたどり着きました。目印になる神社の森や学校の残骸をみながら、方角を定め、大人たちが「ここにちがいない」といいます。けれども台所で、水道の水を溜めていたセメント造りの水槽もうち砕かれてあとかたもありません。夫妻の遺骨はおろか、生活の匂いの跡も焼き尽くされて乾ききっていました。


(2)原爆症のことで身近なことを3つ。

▼その1。
 わたし自身のことです。何日もたたないうちに私に異変がおこりました。河童になりかけたのです。昔話のカッパ、頭に皿があって毛がないでしょう。原爆症の初期症状の脱毛で、下痢がつきます。空襲のさいの救護基地とされた長崎大学病院が壊滅し、医師も、ほぼ全滅に近いありさまでした。開業医70数人のうち40人が死亡・負傷。私の小学校が、大学病院に代わる救護センターになって、長崎市外の海軍病院、海軍工廠の医師が救援に駆けつけていました。

 「学校にいけば治療してもらえる」ときいてそこに行きました。医者が「カッパの行列」というほど、カッパが列をつくっているのです。足の裏の傷や火傷は、化膿がひどかったが傷そのものは思ったほど深くなく、薬もないし、海水を沸かして冷やした塩水で拭いてもらいましたが、カッパの治療は原因もわからず、ないのです。医師は「明日もまた来いよ」というだけでした。  

 わたしは、「何でも見てやろう」タイプでした。2階、3階の入院室をのぞきにいきました。廊下や、階段の踊り場のコンクリートの床にまで、人間が並べられていました。毛布やゴザ、なにかの空き袋がある人はいいほうで、裸に近いひとが投げ出されたように、ヂカにころがっているのです。

 顔も身体も火傷で崩れ男女の区別もつかず、糞尿が溢れたなかに漬かっていても身動きひとつせず、白目を剥いたままの人がいました。体の半分は綺麗なままで、半分だけが焼けただれ、真っ赤な肉は腐っていたが、息を潜めて生きているらしい人がいた。
 わたしは恐怖で、もう2度と入院室まわりは、しないときめました。   

 軍医の「救援記録」から1、2紹介します。
●「とくに心に残っているのは、ひどい全身火傷(大火傷)で入院している父親を、若く美しい娘さんが毎日けなげに看護していたが、焼けどもケガもなく元気であったのに髪の毛が抜けはじめ、口内に出血しはじめ、重傷の父親をおいて亡くなられた、放射能障害とわかったのは後のことだが、原爆の恐ろしさを強く感じた」

●「忘れられないのは、ふと運動場に眼をやると、隅の相撲場の土俵のところに、女性が子供を抱いてボンヤリ座っているのが見えた。そばに行って見ると、赤子はとうに死んでいた。母親に中に入るようにいっても何もいわない。せめて水でもあげようと急いで引き返して水を持っていくと、すでに母親も倒れてなくなっていた」

●「火傷やケガの患者が次第によくなり、逆に付き添っていた普通に見えた人びとが、次第に元気がなくなり、ばたばたと死んでいった。早朝の運動場に這い出して、そのまま息絶えた死体がそこ、ここにころがっていた」。被爆して2週間もたつと、こんな死に方(急性の原爆症)がふえてきて、8月末には「大やけど」の患者を上回った。

●「消防署の車にドラム缶を積んで、海水を汲んで帰り、炊き出し用の大缶で煮て4倍に薄め、1%のリバノール食塩水を作った。当直(衛生兵)を2人おいて、(傷が乾燥しないように)終夜ジヨロで振りまかせた。電灯のない暗やみのなかで、患者の阿鼻叫喚に恐れをなしたが、叱咤激励してやらせた」

●「衛生兵(看護師・・)は、2百人ほどいたが、いずれも海軍志願兵で14、15歳の中学生くらいの子どもたちであった。教室の板の間で寝食をともにしながら重傷患者の世話をし、死体の処置をしていた。精神的にも肉体的にも一番苦労し、若かつたので放射線による二次障害も心配で現在どう暮らしておられるか、案じられてならない」・・。

 これが、長崎の救護センターの活動初期の様子です。

 入院室の遺体は相撲場のところに積まれは、ハエが真っ黒にたかります。やがて長崎市のゴミ車(大八車)が運搬にやってきます。人間がゴミとおなじ扱いですが、毎日、死体を見ていると馴れてしまい、人間でなく何か異物の運搬をみているような感じになり、それに気がついてハットなり、自分の冷酷さが恐ろしくなる、そんな気持ちに何度もなりました。 

 火葬場が壊滅ですから、焼けあとで火葬です。遺族や親戚がいる遺体は、一人の人間として骨になるまで見守られます。しかし、ゴミ車の遺体は一山に積まれて、何処の誰ともしれず「焼却」され、引き取り手のない遺骨は「コツ室」に集められます。そして埋葬されるのです。
 乳飲み子をおぶって、水槽のなかでゆらゆら死んだ、お母さんも「焼却」されたな、と思いました。被爆者は、人間らしく死ぬことが許されなかった。

▼その2
 弟、正紀のこと。お墓に逃げるとき、弟の手を引いたと話しました。私より6歳年下で、爆心地の方向にはいっていません。けれども「壊疽性鼻炎」という奇病で30歳で亡くなりました。
 はじめカゼを引いたように鼻づまりになり、鼻全体が少し腫れたかなという感じで、三菱造船で働いていたし三菱病院に入院しました。

 弟は青年運動のリーダーをしていましたが、「これで時間が稼げて本が読める」と、大きな風呂敷に本を包み、ほかの荷物は私と弟の妻が運んで、闘病にそなえました。翌日、様子を見にいくと車イスで、三目目は酸素テント入りです。主治医に、「どうしたのか」と聞くと、弟の妻も同伴するようにというので、嫌な予感がしました。

 厚い医学書をめくって「壊疽性鼻炎」に説明をしてくれました。
 「鼻腔が海綿のようになりエソ状をなし腐る。患者の背骨をはさんで、テニスボール大の焦げた斑点が目玉のように出来たら最後、呼吸ができなくなる」、長崎県で二人目の発病で、あと一週間の命と宣告されました。
 鼻の病気で死ぬとは、わが耳を疑いました。しかし、毎日、レントゲン写真をとるたびに、箒で掃いたように肺の影がうすれ、肺壊疽となって消えていくのです。

 日に、日に、呼吸困難に陥り、妻の弟は「せめて最期だけでも、親子三人一緒に」と、私の家に預けていた3歳の息子をつれて病室に泊りこみました。しかし、勝負はあっけなかった。枕元に兄弟がいましたが、死の瞬間は台風の嵐で、雷鳴はとどろき、街路樹や電線はうなっていた。当時、弟たちはアメリカの北ベトナム爆撃に抗議して、ベトナム人民支援の活動に力をそそいでいたときです。

 呼吸が荒くなり、高熱にうなされながら、「ベトナムはどうした、おれは背中を撃たれた、ベトナムはどうした」と、うわごとを繰り返し、最後の言葉は叩きつけるような落雷の音でかきけされてしまいました。直接の死因は窒息です、肺が消滅していたのです。30歳でした。私は、「被爆の影響か」と主治医にききました。「被爆者の病気は、原爆の影響がないと断定できるものは、何ひとつない」と答えました。その妻も、10年後に子どもをのこして、すい臓ガンでなくなりました。

▼その3
 俊宏のこと。1971年、長崎で始めての被爆2世の死として、日本中に衝撃をあたえました。宮崎俊宏という16歳の中学生で、わたしの姉の子です。初めは、血が薄くなって塵紙をひたしても赤く染まらないし、へんな病気だと、いっていたのですが、全国的にも例がないという「ジン原発性リンパ肉腫」という血液のガンでした。解剖の所見は、「肝臓と脾臓が腫れ、もろかった。腎臓の両側に腫瘍(リンパ肉腫)があり腹膜にも転移していた。こんな例は聴いたことがない」と、医師はいいました。

 わたしたちの看病は「押さえ係り」でした。俊宏は麻酔が切れると、猛獣が吼えるような唸り声をだして暴れるのです。看護師さんの2人や3人では手が付けられない暴れ方で、夜中におきる。病院に泊まりこんで、押さえ込み、病院からの出勤、日課になりました。身長172a、体重86`のからだが、38`になっていました。
 声をかけあいます。
 「あまり強く抑えるな、あばら骨や足の骨が折れるぞ」
 姉夫婦は、「自分たちのせいではないか、原爆の後遺症が子どもに遺伝するかもしれない、と心配しながら、被爆者同志、結婚したのが悪かった」と悩みました。

 俊宏の父親は、原爆投下のときは、まだ14歳でした。お国のために命を投げ出す覚悟で、海軍飛行予科練習生(特攻隊の即席訓練)を志願し、受験のため熊本にいました。長崎の自宅は、マリア園付近。ようやく、探しあてた家族のありさまを、なかなか話したがりませんでした。ようやく話し出したのは、定年で会社をやめてからではないか。忘れようと心にフタをしていたのです。
 
 話してくれたことです。母親は2百ものガラスの破片を身体に食い込ませ、姉は皮膚の垂れた両手をあげたまま幽霊のようだった。妹は4人いたが、3歳は即死、13日、14日、27日に死んだ。母親は13日に死んだ。弟は9月1日に死んだが、疲れ果てて、弟の死体とは2日間、一緒に寝た。自分で焼いたが、なかなか焼けず3日、4日かかつてやっと骨になった・・・6人を。

 話をもどします。
 被爆2世の初めての死をつたえる全国紙、地方紙、テレビの報道は「両親がそろって長崎での被爆者で、宮崎君の場合ほど、被爆2世の健康問題を社会に訴えたことはなかっただけに、関係者は大きなショックをうけている」・・・ そのとき問題となったのは、
 @被爆2世の病気は、放射能障害の遺伝的影響があるのか、国は実態調査をしろ。
 A医療費の負担。
  ――入院問答がある、担当の医者によばれて、
  ■あなた方に財産はありますか、この病気はものすごくカネがかかる。
  ●両親、ありません。三菱で働いた給料だけです。どれくらい、かかるのですか。
  ■月に70万くらいかかる。
  ● 三菱での収入は月に8万円、医療費は月に70万円、多いとき90万円かかる。負担できない、「家庭が壊れる」。 先生、お金がなかったら、治療してもらえないのですか。
  ■ 朝日新聞が紹介した医師の発言は「放射能障害の遺伝的影響が絶対にない、と証明されるまで、国は被爆2世に医療保護をするべきである」

 この発言は勇気ある発言で、被爆者を大きく励まし、新聞も大きくキャンペーンをつよめ、国や県に救済の訴えを展開したのです。わたしも、県庁に出向き関係部長に面会して事情をのべ、行政の措置を訴えました。県議会も動きました。県と議会は、初めてのケースとして、「難病・小児ガン治療の医療援助」をきめました。適用対象第一号とされましたが、待ちきれずに死にました。被爆後26年目でした。(1971年3月入院、10月に死亡)

 俊宏は、中学生になったときから、地球の構造や成りたちを知りたいと、地質学者になる夢をもっていました。「石ころの声をきいて地球と話すんだ」と、元素記号や、原子番号を覚える、外国に行くため英語をマスターする、ギリシャ語のアルファベットの読み方を勉強する、自分流の勉強もしていました。
 数学は得意でした。先生が教える問題の解き方をみて、「違う解き方もあります」と、黒板に違うとき方で、おなじ答えをだして、先生をビックリさせる、そんな子でした。
少年の夢は、16歳で断たれたのです。

 詩をかくのが好きでした。          
 「男はつかれた 起ち続けることもできないほど、長いあいだ働き続けた男は、やっと眠りにつくことを許されたのです。彼は幸福そうにニッコリ笑いました。それが彼の、初めてで終わりの笑いでした。そして、ゆっくり目をとじました。もう働かなくてもいいんだぞといいながら」

 被爆者は、突然に、理不尽にやってくるさまざまな死をおもい、原爆症に苦しみ、いわれなき差別の目でみられ、生きる恐怖につつまれているのです。また、貧困・生活苦からの自殺、他人との人間的な結びつきを自ら拒絶する「精神的荒廃」、原爆被害の全貌は、いまだに明らかになっていない。原爆が落とされた45年末までだけでも22万人が殺され、いまなお、26万人が原爆症、後遺症で苦しんでいる。

 いくつか、身のまわりのことを話してきましたが、わたしは思い出しているのではありません。忘れられないのです。

被爆体験という言葉は、8月9日の出来事に限定されるように聞えて、しっくりしないのです。8月9日はことの始まりにすぎず、原爆に遭遇した苦しみと悩みは、それからの62年間に、心と身体の奥底にむしろ積み重なっていったのです。
 被爆者は、かろうじて死をまぬがれた人びとです。国家がはじめた戦争によって、未来を奪われ、人生を騙しとられた人びとのことです。被爆者の苦しみは、被爆者であること自体です。

(3)締めくくり

 わたしの父親はわたしが3歳のとき兵隊にとられ、原爆が落とされる4ヵ月前に硫黄島で戦死しました。39歳でした。わたしは顔をしりません。遺骨もありません。       
 日本政府と軍部は、原爆で攻撃される前年の6月、7月のマリアナ沖海戦敗北のころから、日本の戦争経済と軍隊が崩壊し、敗北は必至とみていました。どんな「降伏の仕方をするか」(どうしたら天皇制を維持)、旧ソ連に、米国に対し「名誉ある降伏」の仲介を頼むとか、アメリカの出方をみる「時間稼ぎ」のために、戦争を続けていたのです。
 その時間稼ぎのうちに、東京大空襲(3・9〜10)、大阪空襲(3・14)、日本各地の都市が次々と空襲の被害にあい、沖縄が犠牲になりました(4・1)。そしてとどめは広島、長崎への原爆攻撃となったのです。
 あの戦争がなければ、戦争を引き起こす者がいなかったならば、被爆者は存在しないのです。それが根本ですが、「時間稼ぎ」の戦争継続をしなければ、被爆者だけでなく、沖縄や空襲の犠牲者も、兵隊の犠牲も、なくてすんだのです。
 戦争は、日本国民310万人、アジアの人びと2000万人以上を犠牲にしました。その反省の証が「憲法9条」をもつ日本国憲法の制定です。

 さいごに、久間前防衛大臣の「原爆投下はしようがない」発言について、ひとこと、いわせてもらって終わりにします。
 これは過去の原爆投下のことだけではない。「国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうこと(原爆投下も)も選択肢としてありうることも頭にいれながら考えなければいけない」と。場合によっては原爆の使用もありうると、はっきりいっています。
 原爆資料館の出口に、4年前の新聞記事がパネルにしてあります。米国でテロ対策とし、小型核兵器を研究する予算が議会で承認された・・。地下深くの大量破壊兵器を製作するテロ国家の地下工場を爆破する、地下だから地上に放射能の障害はない・・・。
 その年の(04年7月)、小泉首相のとき、米国のアーミテージ(国務副長官)がきて、自民党の中川(現幹事長)と会談しました。「憲法9条は日米同盟関係の妨げになっている」と強調しました。

 アーミテージはいいました。憲法を変えろとは、「10年前はいえなかった。5年前もささやかなければいけなかった。しかし、いまなら、言える」。これが、改憲論の米国発のメッセージです。
 安倍政権は、現実に憲法9条を捨てる。ブッシュ政権は、「核態勢見直し」報告を米議会に提出されている(07・8・4H)。「より『使いやすい』核兵器」での「第一撃政策」(核の先制使用)をふくめています。
 それを、日米同盟「核の傘」の名で容認し依存するのが日本政府の立場です。原爆投下を「しようがない」ということは、将来の核兵器の使用も「しようがない」と正当化されてしまう。
 5日の長崎新聞は、トップにABCC時代からの「被爆者調査の日本専門家が米の核テロ対策に協力」という報道をした。テロ対策というが、米国が小型核兵器を実際に使用したときの被害対策、とわたしは読みます。                 
 久間暴言が叩かれたとき、テレビで、アメリカ政府の報道官みたいのが、「戦争を早く終わらせるためにやむをえなかった。米国人100万人の命が救えた」という話をしています。沖縄や硫黄島、サイパンなどの犠牲をもとにして、日本本土上陸作戦を強攻した場合の推定値が試算されています。
 正式には、「3万1千人という確証ある推定値が、6月18日にマーシャル将軍が大統領に直接報告した数字」(p78)、があるだけ。米国版大本営発表。原爆が投下されたとき、すでに日本の戦争遂行能力は皆無にちかく、戦略的には無意味でした。原爆で無差別、大量虐殺という国民的非難をまぬがれるための原爆神話なのです。

 いまほど、憲法9条をまもれを主張し、核兵器廃絶のために被爆の実相を語り、継承する運動が大切なときはないと思っています。
 わたし個人も、心臓はニトロが欠かせないし、腎臓もガンの疑いで、進行度の追及検査を続けています。また、症状の酷い被爆者は原爆症認定訴訟を全国で展開しています。