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第5回
雲仙普賢岳火砕流 1991年
1991年6月3日午後4時すぎ。長崎・雲仙普賢岳で発生した大規模火砕流は、時速100`で水無川を駆け下り、避難勧告地域に立ち入って取材していたテレビ、新聞関係者16人、保安確認にあたっていた消防団員12人を含む43人を一瞬でのみ込みました。
大火砕流が発生したとき、当時島原市議だった上田泉さん(65)は、水無川の中流にいました。前日投・開票された市議選での5回目の当選を、有権者に報告していたところでした。
すぐに事務所に戻り、市の対策本部へ向かいました。妻で長崎県立島原温泉病院の婦長だった恵子さんも、大渋滞の中、病院へ戻り、負傷者の救護に当たりました。避難所や仮設住宅を駆け回る大変な日々の始まりでした。
島原市は大火砕流から4日後、全国で初めて住宅密集地に警戒区域を設定し、住民の立ち入りが制限されました。警戒区域・避難勧告区域の設定による避難住民は、最大時、島原市と旧深江町(現・南島原市)あわせて2990世帯、1万1012人にのぼりました。
5年間に9400回を超える火砕流が発生し、避難生活は長期化。大雨で土石流の危険が迫ると水無川流域、中尾川流域の1300世帯、4700人も緊急避難を余儀なくされました。上田市議も当事者でした。
日本共産党は、県委員会に雲仙岳災害対策本部を設置。上田市議は住民が避難を始めるとすぐ活動を開始し、避難所への仮設トイレの設置、湧き水を利用した飲料水の検査など、住民の健康や安全を守る対策に奔走しました。
島原市の党組織は、地域の全党員で会議を開き、救援と災害対策の先頭に立つことを意思統一。火砕流の直接的な被害を受けなかった党員を中心に避難所を回り、党災害対策本部のニュースを被災者に届け、要求を聞き取りました。その実現を市に申し入れ、結果を知らせ、再度要望を聞く活動を繰り返しました。
さらに、民主団体と協力して「救援対策共同センター」を立ち上げ、生活福祉資金や災害援護資金の支給、クーラーの設置など弁護士などの協力も得て、生活相談に取り組んで住民の要求を行政に届けてきました。
こうした党の活動に、「昔は、ありゃ共産党たいと避けていたが、いまではついて行こうごたる(ついて行きたくなる)」との声が聞かれるようになりました。
日本共産党は、「島原生き残りと復興対策協議会」が呼びかけた「特別立法の制定と一千億円基金創設をもとめる全国一千万人署名運動」にも積極的に協力し、92年1月の対政府交渉や各党本部への要請には上田市議と支部の党員も参加しました。国の資金による自然災害の被災者への補償に道を開いた「災害対策基金」を実現しました。
日本共産党国会議員団は、10回にわたって調査団を派遣。不破哲三委員長(当時)【写真左】も、避難所や仮設住宅を訪ねて住民とひざを交えて懇談し、島原市議会で聞き取り調査をしました。
島原市議会が編集・発行した『雲仙・普賢岳噴火災害 議会記録誌』(2003年)は、当時、現地調査で島原市を訪れた政党で唯一、日本共産党の活動に触れ、「日本共産党の不破委員長が来島し雲仙岳・眉山災害対策特別委員会と意見交換会を開催」と紹介しています。
全国各地の県、地区が募金活動に取り組み、義援金を島原市と旧深江町に届けました。1986年に三原山が噴火した伊豆大島の小池光男町議もかけつけ、全島避難の経験を救援活動に生かしました。
同市では、党や共同センターもかかわって、当時災害救助法で1日800円だった避難所での食事供与の基準額を1300円に引き上げさせました。
仮設住宅に入居すると打ち切られていた食事も、1人1日あたり1000円分の供与を実現させました。上田市議の議会要求で市内に防災無線60機の設置と災害予測図の公表が実現しました。
「ひげ市長」として全国に知られた鐘ケ江管一元市長(80)は、いま、雲仙岳災害記念館の名誉館長を務めるとともに、全国で防災講演会を重ねています。
上田さんと一緒に自宅を訪ねると、「議会ではときにはぶつかりあうこともありましたが、島原市の復興と市民の暮らしを一番に思ってがんばってこられたのをよく知っています。市長として心強かった。議員を退いた今も、ひき続き、町内会長など各方面で市政にかかわり、活躍している方は珍しい。尊敬しています」と話しました。 |