2001年8月7日、原爆被災者協議会の講堂で、青森県や神奈川
県から原水爆禁止世界大会に参加した人たちを前に、内田保信さんの声が響きます。
話のはじめに、自らの右手のケロイドを参加者に見せるなど、最初から聴衆は内田さんの話に引き込まれます。
被爆したときのようす、その後の生死をさまよう闘病生活、子どもが生まれるときの大きな不安…、生々しい
内田さんの体験談は、核兵器のむごさを聞く人に教えます。
自らの「核兵器廃絶」への思いと、一人ひとりが核兵器廃絶は可能なことを確信にして、努力して欲しいということを訴えて、約40分の話を結びました。
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内田さんは、被爆者の組織が誕生した24歳頃から被爆体験を人々に語ってきました。日本共産党の指導者や県会議員であったときも、時々、語り部として市民の前に立っていました。
語り部が主な活動となったのは、病気で倒れ、そこから回復してからです。
主な話の相手は、全国から修学旅行で長崎を訪れる、小、中、高の子どもたちです。「うちの生徒たちは態度が悪いので、話をちゃんと聞けないと思います」と、先生が前もって「釈明」した生徒さんたちでも、内田さんが話し始めると、じっと最後まで聞いてくれるそうです。
「未来をつくる子どもたちから、お礼や感想の手紙をもらったときが、語り部として一番幸せです」と語る内田さん宅には、千羽鶴など全国の子どもたちの手作り贈り物も少なくありません。
「命のある限り、語り部の活動を続けたいです。特に、『人がつくった核兵器は人々の運動で廃絶できるという確信』を、みなさんに伝えつづけていきたいのです」と、力強く語ってくれました。