新日本婦人の会長崎支部は太平洋戦争開戦の日の8日、長崎市で被爆者の田中安次郎さんを迎え、「戦争を語りつぐつどい」を開きました。
35人が参加。田中さんは大工だった父親と幼い自分の写真を掲げ「父は、37歳で2回目の赤紙が来て戦地に行くことになった。もう帰ってくることはないだろうと撮った記念写真」だと紹介しました。
3歳の時に、被爆した田中さんは「被爆者と言われるのが嫌で職場でも隠していた」と言います。
退職後、原爆資料館の駐車場で働いていたとき、資料館を見学していた中学生から「人間て、なんであんな残酷なことをするんでしょう」と問われたが、答えることができず、「勉強しなければと思った。あの時の中学生の言葉が私を平和案内人にした」と話しました。田中さんは「あなた型にピースメッセンジャーとして語り継いでほしい」と呼びかけました。
つどいに先立ち、長崎県母親大会連絡会は、市内繁華街で戦時中の召集令状(赤紙)を配布。受け取った中学2年の生徒は「こんな紙1枚で戦争に行かされていたことに驚いた」と話しました。
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