「しんぶん赤旗」2023//

黒い雨インタビュー 松田さん夫妻、栗田さん

長崎市古賀町(旧古賀村)・松原町(旧古賀村松原)
松田宗伍さん(89)松田ムツエさん(85)

 長崎には原爆被害に遭っていても、国が定めた被爆地域外にいたとして被爆者と認められない「被爆体験者」がいます。

 長崎市古賀町(旧古賀村)に住む松田宗伍さん(当時11)は、戦死した兄の初盆を迎えるために、父親とお墓の掃除に行っていたときに、米軍が原爆の威力を図るために投下した落下傘(ラジオゾンデ)が落ちてくるのを見ました。

ピカッと閃光

 ピカッと閃光(せんこう)が走り、山の木の生い茂ったところは山の奥の奥まで落ち葉まで見えました。

 爆風が何度か押し寄せ、山の木は大きくたなびきました 

 父親は、近くに爆弾が落ちたのでは?と言っていたようです。

 急いで家に戻ると、母親は庭に出ていました。 

 みるみるうちに煙が立ちのぼり、太陽は見えなくなり、ぼんやりとした月のようになりました。

 チリやゴミ、焼けた紙が空いっぱいに広がりました。

 三菱の工場の名前が入った焼けた紙が落ちてきました。父親に連れられ市内に入り、兄を捜しましたが見つかりませんでした。

 父親も母親も被爆者健康手帳を取得していますが、11歳の松田さんには手帳を取得させませんでした。原爆に遭った人は、いろんな病気になることや、「嫁がもらえない」「嫁にいけない」と言われていたため、自分は被爆者と認められていても、「子どもは関係ない」とわが子のことを思ってのことだったのでしょう。伏せてしまいました。

 松田さんは、急性原爆症の症状で歯茎から血が出て、鼻はきかなくなりました。おとなになり、大動脈の弁が切れ、手術をしました。不整脈でペースメーカーを昨年入れました。

 現在、長崎被爆体験者訴訟の原告になっています。国や県、市の対応に「真実をなぜ国は認めんとか。死ぬのを待っちょっとたい」とこぼします。

 地上500メートルでさく裂した原爆に山の高さが関係して広島のように被害は広くない―と国は言いますが、「そもそも行政区で分けていることがおかしいのは小学生でもわかる」と怒りを隠しません。

 アメリカやロシアが何千発も核兵器を持っていることについて、「なぜそれを平和に使えんのか不思議でならんとです」。

 当時7歳の妻の松田ムツエさん(85)は同じ古賀村松原(現長崎市松原町)に住んでいました。

 ムツエさんは、古賀の神社で約50人くらいの近所の子どもたちと掃除をしていました。

雪のような灰

 するとパラシュートが流れてきて、閃光と爆音がして、目と耳をふさぎ、近所の家に駆けこもうとしましたが、爆風で、家具が倒れていて、伏せておびえるばかり。

 あたりは暗くなり、夕方のようになり、大雪のように灰やゴミが降ってきました 

 これまでにない体験に、おもしろがって拾いました。そのふわふわする灰はそこらじゅうを覆いました。

 畑に出ていた父親と姉は家にもどり、汗を流したのち、父親がムツエさんを迎えに行くと震えていたといいます。

 ためた山水を近所から分けてもらって飲料水にしていました。「いま思うとぶるっとしますね」とムツエさん。

 父親は松原の消防団長で市内に救援に入りました。家に戻るとすごい臭いがしました。

 ムツエさんは貧血がひどく、鼻血がたびたび止まらなくなりました。校庭で倒れたり、しゃがんだりしていました。

 心臓が悪く、肺もよくありません。最近は帯状疱疹(ほうしん)を発症し、ずっと痛み続けています。

  「原爆の被害に遭いながら認めてもらえないのはなぜですか。同じ被爆者なのにですよ」とムツエさん。


長崎市茂木地区(旧茂木町) 栗田弥生さん(87)

 1945年、栗田弥生さん(9)は、爆心地から8・5キロに位置する茂木町(現長崎市茂木地区)に母親、叔父の家族7〜8人と住んでいました。

 戦争が激しくなり、米軍機グラマンが飛んできて、機銃掃射攻撃が頻繁に行われ、近くのバス停で亡くなる人もでている状況でした。

川の溝で寝る

 家にいるのは危険だと判断し、逃げ隠れるために、高台にある川の溝にゴザを敷いて、その上に布団をしいて、蚊帳をつって眠る生活。「石がごろごろしていて、硬くて痛くて眠れなかった」と振り返ります。

 8月9日、空襲警報が解除されて、国民学校に向かうために、リュックと救急袋、水筒、防空頭巾、掛け布団を肩にかけてひもで結んでは切れることを何度か繰り返しながら歩いていました。 

 B29が飛んでいるのに気付き、後ろにいた知り合いが「日本の飛行機じゃないから動くな」と言ったので、木の陰に2人で隠れました。

 銀色にキラキラ光るラジオゾンデ(米軍が原爆の威力を図るために投下した落下傘)が二つ落ちてきて、「きれいだな〜」と思ったとき、原爆が目の前で花火のようにさく裂しました。

 防空壕(ごう)に駆け込もうとしますが、爆風により飛んできた石が頭の上に当たり、倒れました。

 心配した母親が捜し回り、栗田さんを見つけ、一緒に帰りました。その日から、家に戻り、やっと眠ることができました。

 多くの人が市内の爆心地方面から避難してきました。そうした人々は次々に亡くなりました。料亭が仮の救護所になり、母親は国防婦人会で、毎日のように看護に行きました。

 4年生まではリレーの選手でしたが、翌年5年生の頃には体がだるく、動悸(どうき)もして、微熱もあり、家に帰ってはゴロゴロしていて、親から怒られていました。横になっていてもたまに鼻血が出ていました。

 高校1年生の時に甲状腺機能亢進(こうしん)症と診断され、大分県別府市の病院で甲状腺を取りました。さらに、虫垂炎の手術をしたあと、腸炎を患い、つらい思いをしました。

 母親は血圧が高く、リウマチになり、73歳で亡くなりました。

手帳申請せず

 母親が被爆者手帳を取得したいと言ったとき、栗田さんはその申請をしませんでした。そのため栗田さん自身も手帳を取得せず、2002年に第2種健康診断受診者証(被爆体験者手帳)が導入されたとき初めて申請し、取得しました。

 昨年と、3〜4年前に圧迫骨折し、10年前に大腸がんが見つかりました。脱腸もあり痛みますが、手術は拒んでいます。

 「たくさん病気をしました。もう手術はたくさんです。体験したことを話しておかんといけんと思っていたので機会を得ました」と語りました。