「しんぶん赤旗」2023/10/6

広島にも長崎にも「黒い雨」 池の水 灰よけて飲み
山下まさよさん(82)

 長崎には原爆被害に遭っていても、国が定めた被爆地域外にいたとして被爆者と認められない「被爆体験者」がいます。

 「原爆の被害はもう私たちだけでいいですよ。戦争は二度とやったらダメ」と声をつまらせ訴える被爆体験者の山下まさよさん(82) 

 1945年8月9日、山下さん(4)は爆心地から約11キロに位置する戸石村(現長崎市戸石町)に家族で住んでいました。

 軍が原爆の威力を図るために投下した落下傘(ラジオゾンデ)が西から東に二つ流れ、近所のおじさんが「なんやろか」と話していました。

 5歳上の兄と1歳の妹と海で磯遊びをしていた時、突然ピカッと光り、ドーンと大きな音がしてびっくりして家に帰ると、家の障子も戸も外れていました。

 防空壕(ごう)に早く逃げるよう促され、防空壕に入りますが、じっとしていられるはずもなく、出たり入ったりして、おとなからしかられました。

 19歳の姉は畑にイモを採りに行っていて、爆風で吹き飛ばされ、泣いて帰ってきました。

 みるみるうちに空が暗くなり、空は灰やごみ、ちりで覆われ、太陽が赤く見えました。

 畑は真っ白い粉、焼けた紙切れで覆われ、そこに雨が降り始めると、真っ黒に変わりました。その日じゅう暗く、明るくならないまま夜を迎えました。

 近所の大きな池に、水をくみにいって、灰やごみをひしゃくでよけて、飲んだり、煮炊きに使いました。

 父親は、消防団に招集され、長崎市内に救護に行きました。真っ黒になって帰ってきた父。残留放射線をまとっているとは思うはずもなく、うれしくてしがみつきました。

 原爆投下から2日目、父親は市内の学校に行っていた兄を捜しに行きましたが見つからず。その後兄は、自力で戻ってきました。

分断行政に怒り

 山下さんは、よく歯茎から血がでたり、できものができました。母親は心臓が悪くなり、いとこは肝臓がんで亡くなりました。親戚の中には白血病で亡くなった人もいます。

 現在、山下さんは狭心症と動脈瘤(りゅう)があり、ステントを2本入れています。

 甲状腺異常で15年ほど前から薬を飲んでいます。リウマチや関節痛、胃痛、白内障もあります。毎日多くの薬を飲み、2週間に1度病院に通います。

 長崎の被爆体験者を被爆者と認めるよう求める裁判の原告のひとりの山下さん。「子どもを被爆2世にしてしまった。子や孫、ひ孫の健康が一番気がかりです」と声を震わせます。

 「このへんでも被爆者健康手帳を持っている人と持っていない人がいます。なぜもらえる人ともらえない人がおるとかわからんとですよ。みんな苦労しています。このあたりの人は若くして白血病で亡くなったりしているんですよ」と語り、行政区で線引きする行政に対し、怒りを隠しません。

 「なんでこんなに病気や不安で苦しみよっとに、国は被爆者と認めてくれんとですか。あすはなか命かですよ。被爆78年、被爆者はたくさんはいないはず。政府が本気になれば救済できるはずです。広島と長崎を差別せず同じ被爆者として救済すること。核兵器をなくすために世界の先頭にたつことが願いです」

(このシリーズ終わり。加來恵子が担当しました)