「しんぶん赤旗」2023/8/29

黒い雨 長崎被爆体験者訴訟の原告団長 岩永千代子さん(87)

 原爆が投下された長崎では、原爆被害に遭っていても、国が定めた被爆地域外にいたとして被爆者と認められず、被爆者健康手帳を交付されない人たち、「被爆体験者」がいます。「長崎にも黒い雨は降った」「自治体で区切るのはおかしい」と訴える被爆体験者の証言です。(加來恵子) 

 「南北12・3キロの旧長崎市にいた人を被爆者と認めているのに、爆心地から10・5キロの深堀がなぜ被爆者になれないのか。核兵器の被害は、外部被ばくだけではなく、遠距離にあっても内部被ばくを引き起こすということを知らせることが私の仕事です」と語るのは、多くの被爆体験者の証言を集め長崎被爆体験者訴訟の原告団長を務める岩永千代子さん(87)です。

閃光と爆風が

 1945年8月9日、国民学校4年生(9歳)だった岩永さんは、深堀村で、姉と母と畑でサツマイモの根をはずすための作業を行っていました。 

 お昼前になり母親から家に帰るよう促され、姉の後ろを歩いていたときです。兵舎に向かって歩いている兵士が、茂木の方を指さし、「あの飛行機は日本のものじゃない」と言った瞬間、閃光(せんこう)と爆風があたりを覆い、岩永さんは「終わった。死んだ」と思いました。

 記憶がさだかではありませんが、夢中で10メートルくらい先の防空壕(ごう)のかわりに、橋の下にあった水路(暗渠=あんきょ)に飛び込みました。暗渠の向かいにあった叔母の家の七輪の上のイワシがボワッと燃え上がるのが見えました。

 暗渠から出ると真っ青だった空は、薄暗くなっていました。 

 深堀の人たちの中には、灰をかぶったという人もいます。

 岩永さんの顔はお岩さんのように腫れあがり、まじない師のおばさんのところに連れていかれました。

 くしを入れると髪が抜け、歯を磨くと血が出ました。同級生には、歯茎が紫色の人がいました。

 学校の医務室によく「喉が詰まる感じがする」と訴えました。50歳くらいの時に受けた健康診断で甲状腺異常と診断され、大分県別府市まで行き、甲状腺の水を抜くと、だるかった体が楽になりました。

 被爆者はけがらわしいと差別されるため、言いたくありませんでした。

 

政治何のため

 2010年に両股関節を手術。左耳は聞こえず、メニエール病、高血圧、脳梗塞、狭心症、糖尿病、腹膜炎、慢性肝炎とさまざまな病気を発症。白内障の手術もしました。

 母親は74歳のときに大腸がんで亡くなりました。学徒動員された姉は先生のすすめで被爆者健康手帳を取得。乳がん、狭心症、高血圧などを発症しました。姉の子どもは胃がんで65歳で亡くなりました。

 「間違いに対し、黙るのは加担することです。平和に向けて、間違いを指摘しないといけない。為政者は、何のために政治をしているのでしょうか。命は地球よりも重いのです。田上富久前市長は長崎を最後の被爆地に、とのメッセージを発信しました。鈴木史朗市長には、それを形にしてほしい。被爆者健康手帳交付の権限は県と市にあります。広く内部被ばくを認め、救済することが、核兵器の非人道性を世界に示し、二度と核兵器が使われてはならないというメッセージになるのです」