「しんぶん赤旗」2022/8/9

長崎77年 被爆者と認めてほしい 被爆体験者は願う

 広島、長崎への原爆投下から77年。長崎には被爆したにもかかわらず、国が定めた地域外という理由で被爆者と認められていない「被爆体験者」と呼ばれる人たちがいます。 

●錦戸淑宏さん 同窓会報 次々と訃報

 「いつのころからか、同窓生の会報が訃報を伝えるものになった」と語るのは1960年に長崎県香焼中学校を卒業した錦戸淑宏(よしひろ)さん(78)。45年8月9日に投下された原爆の影響について語りました。

 錦戸さんは爆心地から約8キロに位置する香焼町(現長崎市)の出身です。45年8月9日、兄宏一さんは玄関をほうきではいていました。

 ピカーッと閃光(せんこう)が深堀村(現長崎市)の方から見えました。父親が話していた広島に投下された新型爆弾のことが頭をよぎりました。間もなくすごい音がして、「逃げんば」と思いました。弟の寿光さん(3〜4歳)の手を取り、台所にいた母親に「早く防空壕(ごう)に逃げんば」と叫び、防空壕に逃げました。母親は赤ちゃんの淑宏さんを抱いてはだしで逃げ込みましたが、背中に爆風を受けました。

 子どものころ、淑宏さんは頭を押すとジュクジュクした膿(うみ)が出てなかなか治らなかったといいます。母親は53歳の時、肝硬変で亡くなりました。 

 淑宏さんは同窓生に近況を伝えようと会報「あらかぶ」を80年10月24日に発行し始め、現在も発行し続けています。 

 28歳の時、同窓生の男性が亡くなり、別の同窓生の女性は42歳の時、がんが全身に転移し亡くなりました。抗がん剤の副作用からか髪が抜けました。

 「若いのになぜ亡くなったのか」と思いましたが、被爆が関係しているとは思いませんでした。

 長崎県、市が99〜2000年にかけて取り組んだ被爆未指定地域住民の被爆証言調査に取り組みました。この調査結果に基づき、国は爆心地から12キロ以内を健康特別地区に追加指定しました。香焼の島全体も対象となりましたが、被爆体験による精神的影響が認められる場合に限り医療費を助成する「被爆体験者支援事業」とされました。 

 05年、国は医療給付制度を改悪し、医療助成の対象疾患を精神疾患と合併症に限定しました。そして3カ月に1回は精神科通院しなければ手帳は取り上げられるというものでした。

 同時期、被爆地域拡大を求める大運動も県内で行われており、淑宏さんも会合に参加しました。

 

 淑宏さんは訃報を知らせることが増えたことから17年に病名などの死亡状況をまとめました。それによると中学卒業生140人中住所不明19人。

 

 121人中死亡が確認されているのは43人。事故死が6人。77歳までに37人が病死しています。病歴は胃がんや肝臓がん、心臓病、肺がん、大腸がんです。

 淑宏さんは、心臓病、椎間板ヘルニア、じん肺のアスベスト管理2の状態、しかも肺気腫を患っています。「02年に被爆体験者の手帳を取りましたが、精神病院に通わなければなりません。こんなことがありますか?」

 昨年、「黒い雨」広島高裁判決を受け、当時の菅首相が「原告と同じような事情にあった人たちを救済するよう検討する」とした談話を出した時、香焼の人たちも「自分たちも対象になるのでは」と期待しました。

 「岸田さんは被爆地出身だから、長崎の被爆体験者についても被爆者と認めてくれると思う」と言う親戚の人もいたといいます。

 長崎県保険医協会が昨年呼びかけた被爆体験者を被爆者と認めるよう求めた署名は同級生から500人分が届けられました。

 淑宏さんは言います。「中学の時、運動ができない人が4〜5人いました。体が弱いからだと思っていましたが、いま思うとそれは被爆の影響なんだと思います。会報40年のまとめを制作して初めてわかりました。すべての被爆者を救済してほしい。核兵器のない平和な世界を願っています」(加來恵子)