「しんぶん赤旗」2022/10/3
長崎にも「黒い雨」 原爆被害全体の救済こそ

 長崎でいま、原爆被害にあった被爆体験者らが、国、県、市に対して、被爆者と認めるよう求める新たな取り組みが広がっています。「黒い雨」広島高裁判決(昨年7月14日)を受け、政府が「原告と同じような事情の者を救済できるよう検討する」とした首相談話を閣議決定(同27日)したからです。病気を抱えながら「被爆者と認めてほしい」と訴える被爆体験者の思い、島原半島で降った「黒い雨」の実態をシリーズで追います。(長崎県・前川美穂、加來恵子)

 

●隠ぺいし続ける国

 原爆による放射能により健康被害が生じることを否定できない場合には被爆者と認める―。この広島高裁判決に長崎の原爆被害者も同様に救済されると期待しました。しかし、長崎は切り離され、いまだに救済指針は示されていません。 

 長崎県は独自に専門家会議を設置。放射線を含んだ「黒い雨」やチリなどが降ったと認定する報告書を7月に国に提出しました。報告書では、雨の降らない場合でも空中の放射性物質は爆風とともに広域に拡散し、灰を含む雨でも灰そのものでも放射能を有することに違いはないと指摘しています。

 8月9日、岸田文雄首相は「被爆体験者事業にがんの一部を追加する。速やかに厚生労働相に検討させたい」と発言しました。しかし、そもそも被爆者と被爆体験者を区別し、救済方法を異にしていることが問題です。

 国は、被爆地域を長崎市と隣接する一部地域(東西約5〜7キロ、南北12キロ)に限定し、原爆被害を狭くして、隠ぺいし続けています。

 1945年8月9日当時、風は西から東に吹いており、米軍や日本の研究機関が測定した残留放射線のデータでも島原半島にまで放射線が分布していることは示されています。原爆投下から77年。高齢化した原爆被害者の救済が急がれます。

●広島と同様に認めて

峰松巳さん(95)

 深堀村(現在の深堀町)は、爆心地から南へ10・5キロメートルに位置し、国が定める被爆地のすぐ外側になります。

 

私は被爆者だ

 「被爆地域拡大協議会」(拡大協)の峰松巳会長(95)は、原爆が投下された8月9日、諫早市の航空隊に所属していました。8月23日に除隊になり、汽車に乗らず自宅のある深堀村まで歩いて帰りました。途中、東長崎の矢上村(当時)を通り県庁まで来ましたが、「1キロメートル先の長崎駅まで来ていたら入市被爆と認めるが、そこまで行っていないからあなたは被爆者ではない」と市から切り捨てられました。

 「東長崎の矢上村のあたりは、原爆投下後の米国マンハッタン調査団の測定で、放射能の値が非常に高いとされた。そこを歩いて帰ってきたのだから私は被爆者だ」と憤ります。

 峰さんは、戦後ずっと慢性胃炎と貧血が続き、苦しみました。深堀の自宅で17歳のときに被爆した弟は、定年退職後に白血病を発症。10年ほど治療しましたが、被爆者とは認められずに亡くなりました。

 92歳で胆のうがんのため亡くなった峰さんの妻、フクさんは、被爆地域と認められている土井首(どいのくび)地区に住んでいましたが、勤め先の深堀村で原爆に遭ったため、被爆体験者です。自宅で被爆していたら被爆者と認められていました。

 9日の朝、フクさんは爆心地付近の女学校に通っていた妹を「早く行きなさい」と送り出しました。妹は学校で被爆。翌日、父親たちが探し出し、船に乗せ、連れ帰る途中に亡くなってしまいました。

●自ら責め続け

 母親は、全身にやけどを負った娘の亡きがらを見て、脳卒中で倒れ意識不明に。フクさんは「早く行けと送りださなければ良かった」と後悔し、うつ病のようになり、生涯「自分は罪を犯した」と自らを責め続けました。

 峰さんは、地元自治会長を42年間務め、また、「拡大協」の会長としてもこれまで力を尽くしてきました。

 広島の「黒い雨」高裁判決を正面から受け止めず、広島と長崎の原爆被害者を分断する政府に対し、「黒い雨はこの深堀でも降っている。女性の着物が雨でぬれて黒いシミがついていたのを見た証人もいる。広島だけでなく、長崎も『同じ事情の下にあった』のに、切り捨てられるのは悔しい。広島同様に被爆者と認め救済してほしい」と語りました。