「しんぶん赤旗」2022/10/5
長崎にも「黒い雨」 母の死は放射能の影響か

 1945年8月9日の原爆投下により放射能を含んだ「黒い雨」やチリ、ほこりは風に乗って島原半島にまで運ばれました。米軍マンハッタン調査団と理化学研究所は爆心付近から東方47キロメートル離れた島原までの残留放射線を測定し、広範囲に放射性降下物があったことを観測しました。爆心地から約37〜39キロメートルに位置する南有馬と西有家(ありえ)を訪ね、体験を聞きました。(加來恵子)

 

 長崎県南有馬町に住む松永麟蔵(りんぞう)さん(89)は当時12歳。友人と3人、ガソリンの代替だったマツヤニを集めに裏山にある松林にいました。 

●雲は西方から

 その時ピカッと光りました。ドドーンと雷のようなすごい音がしたので家に戻りました。母親のササヲさんも「気分が悪い」と家に戻っていました。

 隣にあった学校で寝泊まりしていた陸軍二小隊の人たちが「さっきピカッと光ってドカンとしたけど、あれは何ね?」「ガスタンクが爆発した音だ」という話し声が聞こえました。

 太陽は雲に隠れ黄色く薄気味わるい色をしていました。西の方から雲は流れてきました。

 のちに新型爆弾だとわかり、長崎にはもう草木は一本も生えないという話が伝わってきました。

 2年ほどして、母・ササヲさんは胃がんと診断され、腹水がたまり、おなかがふくれあがって亡くなりました。42歳でした。

 麟蔵さんは「放射能を含むチリや雨は雲とともに流れてきました。母の死に放射能の影響があったのかもしれませんね」と語ります。

 

 妻のハルエさん(81)は当時4歳、西有家に住んでいました。家の中でしょうゆを絞っている時にピカッと光ったのを覚えています。しばらくして外に出ると天気はいいのに太陽が隠れていることに気づきました。日食のように太陽が隠れ、あたりが薄暗くなりました。夕方でもないのに、空が夕焼けのように赤くてきれいでした。「当時の人たちは西の方(長崎方面)に雲があがったのを見ています」と語ります。

●体験聞き取り

 中学校教員だった麟蔵さんは、1972年に有家中学校で、子どもたちに両親らの戦争体験を聞く課題を出し、「おとうさん おかあさんの戦争体験記」という冊子にまとめました。この中から体験談を紹介します。

  有家町で午前11時ごろ、警戒警報のサイレンが鳴った。と同時に飛行機の音がしたので早く家に帰ろうと思っていた時ドカンというものすごく大きな音がしました。1時間余りたって、北西の方を眺めたら、へんな色、形の雲が見えた。太陽の光がいつもと違って見えました。(北村さん)

 有家町はよく晴れわたり、真夏の太陽がじりじりと照りつける11時ごろ。ドドドーンと大地を揺るがすように大音響とともに窓ガラスや雨戸がビシビシ揺れ動く音。まるで雲仙岳が噴火でもしたのかと思い、山を仰ぎました。午後5時ごろになり、太陽が西の空に傾きかける頃、太陽がぼおっとかすんで、まるで日食の時のすぼした(原文のママ)ガラス越しに見るごとくまぶしくない太陽を見ました。(伊福さん)