「しんぶん赤旗」2022/12/23

長崎にも「黒い雨」
襲いかかるウロコ状の雲

旧矢上村(長崎市平間町)

 原爆が投下された長崎で原爆被害にあったにもかかわらず、国が指定した被爆地域外だったため、被爆者と認められない「被爆体験者」がいます。矢上村(現在の長崎市平間町)での証言を紹介します。(加來恵子)

 北川吉雄さん(82)は矢上村の自宅からすぐの川で兄と弟と泳いでいた時に被爆しました。

 ピカッと光り、急いで川から上がり、川沿いにあった芋畑のうねの谷に伏せました。

 心配した母が探しまわり、畑に伏せている3人を家に連れて帰ったと、後で聞きました。

 気が付いて、空を見上げると魚のウロコのような雲がもくもくとわき上がり、襲いかかってきました。その雲が空一面を覆い隠したのはお昼を過ぎたころでしょうか。

 空はうす暗く、月食を見たような感じで、真ん丸い太陽が黄色とも赤とも言えない色をしていて肉眼で見えました。

燃えカス次々
 雲が通り過ぎるとき、衣類やわら、紙の燃えカスが空から落ちてきました。

 爆風の影響だと思いますが、小屋の軒下にかけていた農作業の道具は端の方に吹き飛ばされていました。

 その後、避難者や諫早(いさはや)方面に逃げていく人が国道を次々と歩いていきました。

 

 家が国道沿いにあったため、その光景を見ていました。家の庭先にムシロをしいてもらい休憩する人もいました。そういう人に家の裏にあった井戸から水をくんで飲ませてあげました。

 飲み水は井戸水で、灰をかぶったサトイモやサツマイモなどの農産物を食べていました。当時、時期はそれぞれですが家族みんなが下痢を患いました。

 70年代に地元選出の社会党国会議員、自民党国会議員が被爆地域拡大の運動を後押ししたこともあり、この地域の聞き取りなどを手伝うことになりました。

首相の役割は
 矢上や古賀、戸石の消防団や婦人会は市内に救援に行ったり、救護活動を行っていたので、集団で被爆者健康手帳の申請をしようという取り組みがされ、中尾、現川(うつつがわ)の一部は対象になりましたが、隣接地域は入りませんでした。

 兄は急性肺炎、弟は心筋梗塞で亡くなりました。私は難病の全身性アミロイドーシスを患い入退院を繰り返しています。

 2002年に被爆体験者としての手帳を取得していますが、行政区によって区別され、被爆体験者にされていることに納得ができません。全ての原爆被害者を被爆者と認め、救済することが唯一の戦争被爆国・日本、そして、広島出身の岸田さん(首相)の役割ではないでしょうか。

ごまかしと時間稼ぎだ
 自身の医院で被爆者や被爆体験者を診てきた長崎県保険医協会の本田孝也会長に聞きました。

  被爆体験者支援事業が始まって20年が過ぎました。被爆未指定地域住民の放射線被ばくの影響を否定し、健康障害を全て精神的影響としたため、当初から矛盾を抱えていました。

 

 住民は被爆体験者として被爆者から区別され、支援を受けるにはPTSD(心的外傷後ストレス障害)や不眠症などの精神疾患を有し、毎年精神科を受診する必要があります。精神科を受診しないと被爆体験者の手帳が取り上げられます。

 指定された疾病のみ窓口負担が免除されます。さみだれ式に、認知症、脳血管障害、脂質異常症などが追加されましたが、放射線に関係の深いがんは対象となりませんでした。 

 それが8月の平和式典で岸田首相が、がんの一部を追加すると発表しました。しかし、被爆体験者が期待していたのは対象疾患の拡大ではなく、被爆者認定でした。問題のすりかえ、ごまかし、時間稼ぎ以外の何物でもありません。

 広島の「黒い雨」被害者を救済しながら、長崎の被爆体験者を被爆者と認めずに「支援事業」にがんを加え、助成するのは根本的に間違っています。