「しんぶん赤旗」2022/12/27

長崎にも「黒い雨」
病気は原爆の影響です

旧古賀村(現長崎市)

 国が定めた地域外で被爆したために被爆者と認められない「被爆体験者」。原爆投下当時、風は西から東に吹いており、島原半島にまで放射能を含んだ「黒い雨」やチリなどが運ばれました。被爆者援護法1条3号は「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」としており、こうしたもとにいた人には被爆者健康手帳が交付されることになっています。「なぜ被爆者と認められないのか」と訴える被爆体験者の証言です。(加來恵子)

 1945年、渡邊一則さん(83)は古賀国民学校1年生でした。

 8月9日は夏休みで、爆心地から9・3キロメートルに位置する古賀村(現長崎市)の小学生ら100人あまりが家から遠くない防空壕(ごう)前の畑で柿の木に登ったりして遊んでいた時、西の長崎方面からピカーッと青白い光が走りました。

木から落とされ 
 しばらくすると爆風により柿の木に登っていた4〜5人が落とされました。

  その後、もくもくとした煙があがり、空は黒い煙に覆われ太陽が隠されました。その状態は20分以上続きました。

 その後、新聞紙や燃えカスがどんどん降ってきました。しばらくするとネトネトした雨が降ってきました。

  何が起きたか分からず、怖くて、不安で心細く家に急ぎ帰りました。約100人いた子どもは三々五々家に戻りました。

  数時間後、近くにあった横瀬医院は、長崎から逃げてきた人でいっぱいになっていました。着ているモノはボロボロで、「水を下さい。水を下さい」という声が耳に残っています。

  日本大学の理工学部で学ぶなか、私にも原爆の影響はないかと不安を抱えるようになりました。

拡大運動関わる

 1976年に長崎に戻り被爆地域拡大運動に関わるようになりました。当時、社会党(現社民党)や自民党の国会議員が被爆地域拡大運動を進めていました。何度も厚労省交渉に行きましたが、長崎の現場を見ることなく「科学的データがない」と繰り返し言われ、頭にきました。

 被爆指定地域は科学的根拠のない旧長崎市と隣接する南北12キロ、東西7キロと定められているのはおかしい。当時、風は西から東に吹いています。

 当時18歳だった兄は直爆で亡くなり、父親は警防団の団長をしていて入市被爆で昭和24年(1949年)に亡くなりました。母は64歳の時、心不全で亡くなりました。

 私も、狭心症、大腸がん、胃がん、白内障の手術をしましたが、原爆の影響があると確信しています。

 

 この地域では、早くから被爆地域拡大運動が取り組まれ、ある人は、髪が抜けた。白血病で亡くなったなどの話がぽつぽつあったんですよ。

 おとなは、原爆にあっていると、結婚にさしさわるからと隠しました。被害者でありながら差別や偏見を恐れ語ることができませんでした。

 被爆体験者は精神病からの病気の発症ではなく、原爆による発病です。科学的根拠のない被爆地域を改め原爆被害者全員に被爆者手帳を交付すべきです。そして、被爆地域を爆心地から12キロまで認め、核兵器が二度と使われてはならないことを世界に知らしめるべきです。