「しんぶん赤旗」2022/10/20
長崎にも「黒い雨」 一緒に被爆 弟は死亡

旧深堀村(長崎市深堀町)

 1957年、国が定めた長崎の原爆被爆地域は、旧長崎市の全域と隣接する村の一部という科学的知見を無視したものでした。旧深堀村(現在の長崎市深堀町)は爆心地から10・5キロメートルで旧長崎市に接しているにもかかわらず、被爆地域とは認められていません。74年と76年に被爆地域は一部拡大されましたが、爆心地から旧深堀村より遠い地域が被爆地に指定されるなど矛盾に満ちたものになっています。旧深堀村で原爆被害にあった「被爆体験者」に話を聞きました。(長崎県・前川美穂)


 原爆が投下された1945年8月9日、国民学校1年生(6歳)だった峰鷹繁(みね・たかしげ)さん(83)は自宅にいました。 

正面から熱風

 原爆が落とされた瞬間、いったん暗くなり、ピカピカッと光った後、ドッスーンという音がして、雲が桃色に変わりました。それが消えかかった時に黒い煙が上がりました。

 自宅の真正面から熱風が吹き込みました。瓦は落ち、ガラスが割れ、ふすまなどとともに体が飛ばされました。

 「あのひどい熱風は天草まで行っとるばい」と当時を振り返ります。

 海で泳いでいて背中にやけどを負った人や、あまりの熱さに海中に潜り、船の下を行ったり来たりしてやり過ごした人もいたといいます。

 5人兄弟の鷹繁さん。一緒に被爆した弟は小学校に上がる前に亡くなりました。

  父親は、国家総動員法の下、工場動員などで勤労に従事させられた女子挺身(ていしん)隊だった自分の妹を探しに長崎市内に入り被爆しました。その後、いろんな病気を患い、手術を受け、入退院を来り返し、70歳で亡くなりました。父親が働けず、母親が魚売りの商いで家計を支えました。

 鷹繁さんは現在、狭心症、高血圧症、慢性胃炎、関節炎の治療を受けています。


魚焼くように

 宮地(みやち)隆さん(89)は、12歳で被爆しました。実家は造船所を経営しており、原爆が投下されたとき、自宅前の海で弟と泳いでいました。

 海から上がった瞬間に背中がひどく熱くなり、びっくりして家に戻り、押し入れに逃げ込み、眠ってしまいました。

 数日後、友人と近所で遊んでいると、他の地区の男性が、亡くなった3人を三輪自動車に乗せて運んできました。

 閉鎖した川南(かわなみ)造船所から鉄のアングル(L型鋼)を持ってきて並べ、その上に死体を置き、廃材に重油をかけて燃やすのです。友人と一緒に死体の足を持ち、移動を手伝いました。

 「魚を焼くように人を焼いていた」と言います。

 現在、慢性胃炎、過敏性ぼうこう、糖尿病、関節炎、高血圧、甲状腺異常などの疾患を抱えています。

 被爆者と認められれば、被爆者健康手帳の交付により、自己負担なく医療を受けることができます。

 一方長崎被爆体験者事業は、2002年に国が導入した被爆地域外の原爆被害者に対し、原爆体験による精神疾患が認められる場合にのみ、がんを除く疾患・症状を対象とした医療費を免除するもの。「被爆体験者精神医療受給者証」は長崎県の事業であるため県内でしか使用することができません。

 宮地さんは訴えます。「一緒に被爆した兄妹4人は県外に住んでいるため、被爆体験者とも認められず、あきらめています。被爆した人全員が被爆者手帳をもらえるようにしてほしい」