「しんぶん赤旗」2022/12/7

被爆体験者証言
長崎にも「黒い雨」燃えカスや灰が次々と

 

 

旧古賀村(長崎市船石町)

 長崎で原爆被害にあっていても、国が定めた「被爆地域」外にいたため被爆者と認められず、被爆者健康手帳を交付されない被爆体験者。2021年の「黒い雨」訴訟広島高裁判決を受け、長崎の被爆体験者も救済されると期待をしましたが、救済対象から外されました。広島は救済対象を推定1万3000人と広げ、申請者に被爆者健康手帳を交付する一方、長崎では被爆体験者事業の研究対象にがんを加え、研究に協力した人に対し医療費を免除すると厚労省が発表しました。同じ原爆被害者でありながら、被爆者として認められない人たちの当時の証言と思いを紹介します。(加來恵子)

 松下明則さん(84)は爆心地から約11キロに位置する古賀村木場名字上座(現・長崎市船石町)の山と田畑に囲まれた20戸あまりの農村で生まれました。1945年、8月9日、1年生の松下さんは古賀国民学校の分散授業を受けるために、6年生と4年生の姉や集落の生徒全員で中川内青年倶楽部(公民館のようなもの)に行っていました。

 上級生は掃除や机、いすなどを並べ、授業の準備をし、低学年の私たちは庭で遊んでいました。 

長崎の方から
 その時、「ピカーッ」と強烈な光とすごい爆風に「伏せろー」という声で地面に伏せました。

  何が起きたかわからず、すぐに帰宅することになりました。集落の生徒みんなで山道のそのまた上の細い道を帰る途中、長崎のほうから黒い煙や燃えカスや灰などが次々と降ってきました。

  翌日、父たちは長崎に救護に行き、丸い竹かごを2人で担ぎ、知り合いの人を連れてきました。

 

 その人たちをまともに見ることができませんでした。

 当時、水道はなく、山の湧き水でつくった水くみ場から飲み水も風呂の水もくんで家まで運んでいました。

 その水くみ場も燃えカス、灰が浮いていました。 

 畑の野菜にも灰は積もっていました。そんな水を飲み、野菜を食べていました。

 姉ふたりはいつも病気がちでした。いまも高血圧や消化器系の病気を抱えています。

 

この先が不安
 いまは、内部被ばくが心配です。年齢とともに高血圧や心臓病、消化器系の病気を抱え、この先が不安です。

 被爆体験者は原爆によるトラウマ・精神疾患と合併症の医療費の窓口負担が免除されています。しかし、そもそも国は、科学的根拠なく、被爆地域を長崎と隣接する東西約5〜7キロ、南北12キロに限定し、一部地域を拡大しました。

 広島の「黒い雨」被害者に被爆者健康手帳を交付し、長崎は被爆体験者事業に一部がんを認めることでごまかそうとしています。

 被爆体験者は被爆者です。年齢的にもあとがありません。国はすべての原爆被害者を救済すべきです。