「しんぶん赤旗」2022/8/9

長崎の被爆体験者が語る―被爆者と認めてほしい

  「同じ村で被爆しながら、式見川を隔てて被爆者健康手帳をもらえた人と、もらえない人がいるなんて」と訴える数幸代さん(77)の証言です。

 爆心地から7・8`bの西彼杵郡式見村(当時)で被爆した数さんは、生後5カ月でした。姉のヨシエさんに聞いたところによると、その日は海岸に洗い物に行った母親にお乳をもらうため、ヨシエさんは数さんをおぶって海に向かっていました。11時2分、ピカッと光ったかと思うと、お尻にボールが投げつけられたような衝撃を受け、激しい痛みを感じたといいます。

 ヨシエさんは、恐ろしくて近くの親戚の家に逃げ込みました。夕方、自宅に戻ると瓦は飛び、ガラス、額縁、柱時計などが家の中に散らばっていました。祖母は恐怖で家の中をぐるぐる歩き回っていたといいます。

 数日後、母親に背負われ、爆心地から1`bの油木町に入市していますが、証明してくれる人がおらず、被爆者健康手帳は受給できませんでした。

 幼少期に大病(病名不明)をして医者から「もうダメだ」といわれましたが、懸命の看護で一命をとりとめました。

 17歳の時、十二指腸潰瘍で手術し、結婚後は胆石症で手術をして胆のうを摘出しました。今は、脳の血管が細くなり、薬を飲んでいます。腰の骨が変形し足の痛みがひどく、今年、足の手術をしましたが、まだ歩いて外出はできません。家族も様々な病気に苦しみ、母親は脳内出血で倒れ、半身不随で寝たきりになり、54歳で亡くなりました。

 式見村の向郷、木場郷、牧野郷は1976年に行われた原爆被爆地域拡大により第1種健康診断特例区域と認定され、夫とその家族は被爆者健康手帳を取得しました。しかし、数さんが暮らしていた中尾地区などは認定されず、被爆地域と被爆未指定地域に分断されました。

 数さんは「みんな黒い雨や灰も受けています。同級生たちは『被爆者と認めてほしい』と言いながら若くして亡くなっていきました。なんとか認めてもらいたい」とせつせつと訴えます。「核兵器を1日も早くなくしてほしい。『長崎を最後の被爆地に』は被爆者みんなの願いです」

(長崎県・前川美穂)