「しんぶん赤旗」2021/12/10

証言戦争 太平洋戦争開戦80年 小さな島の学校にグラマン急降下
長崎・五島 元共産党市議 佐々田勇二さん(87)

人間は消耗品扱い

 「終戦間近になると、この小さな五島にも空襲が及ぶようになりました」―。そう話すのは、旧福江市で日本共産党市議を務めた佐々田勇二さん(87)=長崎県五島市=です。1945年7月のことでした。
 東シナ海に面し、古くは大陸への中継地だった五島は、今も当時の史跡が残ります。

■機銃掃射で

 佐々田さんが通っていた富江国民学校(現・五島市立富江小学校)も、攻撃の対象に。「現在、武道館がある場所にも校舎があり、爆撃で倒壊しました。あの日、放課後の掃除中に突然、空襲警報が鳴り、教頭先生から掃除を切り上げ、帰宅するよう命じられ、命拾いしました」
 児童らが日本軍の戦闘機と思い、窓から手を振った直後、急降下し校舎の屋根すれすれで、機銃掃射を受けたことも。「米軍のグラマン戦闘機でした。大変驚いて、とっさに机の下に隠れたのを、昨日のことのように思い出します。その流れ弾が家の近所の国民学校1年生の子にあたり、亡くなりました」
 旧富江町の住宅街にある大蓮寺墓地には、空襲で上半分が吹き飛ばされたり、土台だけになったりした墓石が残ります。「外国のお墓と違い、縦に立っているので、人の集まりと思い爆撃したのだと思います」
 空襲は激しくなる一方でした。「当時の富江測候所に2本の無線鉄塔があったので標的にされたのだと思います。船だまりや役場近くにも爆弾が落ちました。陸軍の飛行場と基地もあり、前線とみなされていたのでしょう」と当時の記憶をたどります。
 佐々田さんは、34年(昭和9年)11月、福江島の貧しい漁師の家で、11人兄弟姉妹の7番目に生まれました。「戦争の兵隊を確保するため、産めよ殖(ふ)やせよの時代。7人、8人と産むのが普通でした。徴兵制度のもと、人間であっても、物、消耗品扱いされていたわけです。十数人産んだ家は表彰される制度もあったそうです」。佐々田さんは、一番上の姉と二番目の姉は所在不明といいます。

■修身が中心

 41年、佐々田さんは富江国民学校に入学。「教育の基本は修身が中心。中身は全くわからないまま教育勅語を暗唱させられました。それができないと、他の学科の成績が良くても、評価はよくありませんでした」
 戦争が始まってすぐのころは、勝った、勝ったと戦果が発表され、敵地が陥落すれば、旗行列、ちょうちん行列が続き、世界地図には日の丸が書かれていたと振り返ります。「軍国主義一色、とにかく何でも国のためという教育です。大きくなったら何になるかと聞かれれば、『陸軍大将』と答えていました」
 「戦況が悪化しても周囲のおとなたちは負けると思っていなかったのではないか。最後は神風が吹いて日本が勝つと、先生からも教えられました」
 佐々田さんは48年ごろの写真を手に語ります。「誰も靴を履いていません。後ろの列の右から2番目が私です。ちょっと学生服が破けているでしょう。終戦後、すぐに生活がよくなるわけではないのです」
 岸田政権は台湾有事などと言って、国民の不安をあおっています。事実でないことを国民に信じ込ませ、戦争に導いた先の大戦と同じようだと佐々田さんは指摘します。
 「戦争は国民を守るためと為政者は言うが、戦争になれば国民の命がおびやかされる。そのことをこれからの世代は考えてほしいものです」(嘉藤敬佑)