「しんぶん赤旗」2020/8/8
被爆者は訴える 長崎市在住 橋口亮子さん(82)
 8月9日、爆心地から3・5`の伊良林町(今の風頭町)に暮らしていた私は7歳でした。祖父母と母、兄と5人姉妹の大家族で、父は仕事で中国に行っていました。11時2分、家に来ていた叔父が「あれはB29の音ばい」と言った瞬間、真っ暗になり、ものすごい爆音。家の中のものは壊れ、壁も崩れ落ちました。

 夕方になり、祖母に手を引かれて高台の風頭公園に行きました。見下ろすと、空が赤々して長崎の街が燃えています。「長崎の街もこれでおしまいばい」とみんなが話している。怖くて怖くて、祖母の手を握りしめました。

 その日の朝、私の頭をなでて「亮子ちゃん、行ってくるね。じいちゃん、ばあちゃんを頼むけんね」と三菱長崎製鋼所に出かけていったもう一人の叔父は、爆心地から約1`で爆死。帰ってきませんでした。

 1週間後、母は1歳3カ月の妹を背負い、毎日毎日、伯父の遺骨を探しに爆心地へ通っていました。ある日、ブリキのバケツいっぱいの骨を拾ってきて「誰の骨かわからんけど、よしはるさん(叔父)の骨と思って拾ってきた」と。母は、そのことをずっと気にしていました。

 父が戻った頃から、「被爆者の子どもとは結婚するな」とか「結婚している人も離婚された」とか言われていました。父は私たちに「原爆におうたことを絶対人に話したらいかん」と言い、原爆にあったかどうか調査に来た人にも「原爆にはあっていません」と答えていました。子どもたちの将来を考えたのだと思います。

 戦争や原爆について、あまり考えていなかった私を変える出来事がありました。長崎民商に入っていた私は、1985年10月、沖縄での全国活動者会議に参加。現地の民商の人から「ガマ」を案内してもらい、そこで聞いた壮絶な体験にショックを受けました。翌日の分散会で、若い参加者が「戦争の話は親からも聞いたことがない」と発言。思わず手をあげ立ち上がり「私は被爆者です」と被爆体験を語りました。

 沖縄での体験が私の人生を変えました。「命どぅ宝」の言葉が忘れられません。こんなに人って変わるものだろうかというくらい、民商運動や平和運動に没頭していきました。

 私の母はいつも歯茎から血をだしていて、68歳で肺がんを患い亡くなりました。戦後生まれの一番下の妹も28歳の時、結婚してすぐにがんで亡くなりました。母に背負われて爆心地に入った妹は、甲状腺異常など病気を繰り返し、乳がんにもかかりました。私も乳がんと子宮筋腫になりました。

 放射能は身体にいつ何をするかわからない。その辛さは、体験しないとわかりません。それを伝えていくことが大事だと思います。

 まもなく9日、なぜ、日本政府はアメリカのいいなりになって、核抑止論に固執するのか。真っ先に核兵器禁止条約に署名するべきです。若い人たちには、せめて原爆が落ちたことを知ってほしい。被爆者がどんどん亡くなっていき、どうなってしまうのだろうと不安になります。戦争は絶対なかごとしてもらわんと。