「しんぶん赤旗」2006/5/29三面
「九条やイラクの話しは慎むように」
長崎市外郭団体の自粛要請 戸惑う被爆「語り部」たち

 「原爆被害は戦争が生んだ」

 憲法九条や環境・人権、イラク問題など「政治的問題についての発言は慎んでほしい|」。長崎市の外郭団体「平和推進協会」(推進協)が、同協会に所属する被爆の「語り部」に出したこんな要請に、被爆者や市民から戸惑いと怒りが広がっています。「語り部」の思いから考えてみました。(長崎・田中康)
 

 羽田麗子さん(70)。推進協には入っていませんが、教職を辞してから十年近く「語り部」活動を続けています。小学三年のとき、爆心地から二・六`の自宅玄関先で被爆し、爆風で家の奥まで吹き飛ばされました。
  
写真を見せて「想像できる?」
 被爆校舎がいまも残る城山小学校。この十八日も修学旅行生を前に、「爆心地付近から背中いっぱいガラスを背負って帰ってきた近所のお兄ちゃん。全身やけどでどこに目があり耳があるのか分からないほど膨れ上がったおばちゃん。翌日二人の姿はもうありません」と被爆体験を語りました(写真左)。
 被爆前の町並みと被爆後の写真を見せ、「すべて破壊されまともな建物はありませんね。あなたの家がここにあったら…想像できますか」と問いかけます。続けて「イラクではいまも戦争が続き子どもたちがたくさん犠牲になっています。劣化ウラン弾という核爆弾も使われています。原爆はいまも世界に三万発も残されています」。
 推進協で自粛の対象とされている言葉も自然に話の流れのなかで出てきました。
  
 推進協は、平和事業の推進のため、広く市民の参加を求めて一九八三年に設立されました。理事会は被爆者団体の代表や市幹部ら二十三人で構成しています。日常的には、被爆継承部会や写真調査の部会などの活動を、市派遣の職員による事務局が運営にあたっています。

戦争は二度としてほしくない
 問題の発端は、今年一月、推進協・継承部会の総会で「政治的な発言は自粛を」との文書が配布されたことです。
 問題を重視した日本被団協は四月十一日、「貴協会の真意を確かめたい」として、「(自粛文書は)貴協会の目的にも反するのではないか」など八項目の具体例をあげて異例の公開質問状を提出。推進協は「思想・信条の制約を意図したものではない」と繰り返すだけです。
 推進協内部には、文書で拘束することに異論を唱える人も少なくありませんが、文書を撤回するまでには至っていません。市民の間からは、むしろ推進協が「政治的圧力」をかけているのではないか、「平和の大切さを被爆者自身が語ることこそ、思想・信条を超えて核兵器廃絶を訴えることではないのか」との声が聞かれます。
 羽田さんだけではありません。「被爆体験を語るのはどんな気持ちからですか」と語り部の人たちに聞くと、全員が「二度と戦争はしてほしくないから」「核兵器はあってはならない非人道的兵器だから」とはっきり答えます。「本当は思い出したくない」と付け加える語り部もいます。
 *写真は「多くの人達の犠牲の上に今の平和があることを忘れてはなりません」と誓いを述べる修学旅行生(23日平和公園)

どう語ったら考えてくれるのか
 語り部六百回を超した羽田さん。悲劇を二度と繰り返させないために、どう伝えたらいいのか。工夫と苦心の連続です。 「子どもたちは正直です。『原爆はこんなにひどかった』と語るだけでは、『かわいそう』『涙が出た』『そのときに生きていなくてよかった』という感想になるんです」と、自らの経験を振り返ります。そしていつも考えます。「どう語れば子どもたちが自分のこととして、いまの現実の問題として考えてくれるだろうか」と。
 自粛文書問題についても、「憲法九条までが慎むべき項目と知りビックリです。核兵器も戦争もない世界をつくるために、自ら体験してきたことや思っていることを言うなという『平和推進』って何だろうと思ってしまいます」。
 
被爆の「語り部」とは…………………………………………………………
 被爆の「語り部」とは…長崎で、推進協や被爆者団体に所属・登録している被爆の「語り部」は六十人ほどです。推進協に登録している「語り部」(三十数人)は、市内外の小中学生への被爆講話を担当し、推進協全体は、被爆講話のほか平和学習、講演会などで、平和意識の高揚を図るために活動しています。

被爆の実相が政治的にゆがめられている
 長崎原爆被災者協議会・山田拓民事務局長の話
 原爆被害は自然災害ではなく、戦争という国の行為によるものです。国はいま「核攻撃を受けたら、閃(せん)光や火球で失明の恐れがあるから見るな、とっさに遮蔽(しゃへい)物の陰に身を隠せ|』(国民の保護に関する基本指針)などと防護できるかのようにいっています。被爆の実相が政治の力によって大きくゆがめられているのです。こういうときだからこそ被爆者が、身をもって体験した被害の実相とその後の六十年の思いを語り、継承することが必要なのです。