長崎原爆遺構を歩く   (上)   下へ
    長崎県原水協常任理事 内田武志
   
   2008年8月、「しんぶん赤旗」に10回連載された(8月21日完)記事を、まとめて掲載します

一本柱の鳥居   (坂本町4‐5)
 爆心地から南東約八百bにある「一本柱の鳥居」は、長崎原爆のすさまじさの痕を残す数少ない遺構の一つです。

 この鳥居は山王神社の二の鳥居です。原爆の強烈な熱線が鳥居の上部を黒く焼き、次の瞬間には秒速二百bの爆風が襲い、爆心地側の半分を破壊しました。よく見ると残された笠石は風圧でねじ曲げられています。

 また、柱には奉納者の氏名が刻まれていますが、爆心地方向の名前は熱線で柱石に含まれた雲母が溶け出し、氏名が読めなくなっています。爆風で倒壊し部分は近くに無造作に今も積まれたままです。

 一の鳥居は爆心地に平行に建っており、被爆後も健在でしたが、現在は姿を消しています。三の鳥居の片足は、坂本町民原子爆弾殉難碑として山王社入り口に建っています。

 当時山王地区で家族全員が生き残ったのはただ一家族のみであり、およそ七百名が爆死、坂本全町では三千人が犠牲になったといいます。

 山王神社には樹齢五百年といわれる二本の大クスがあります。原爆で見る影もない姿になり、蘇生はおぼつかないとおもわれたこの被爆クスの木は、その年の十月には新芽を吹き、次第に樹勢を盛り返し枝葉を茂らせ、戦後復興に希望を与え、地域の人々を励ましました。

浦上天主堂 本尾町1
 旧天主堂は、浦上四番崩れ(一八六八年の切支丹弾圧)で追放された信徒たちが、禁教令廃止後に荒れ野となった村に帰り、貧しい暮らしの中、勤労奉仕と献金で三十年をかけ建設されました。
 この場所は、かつて「踏み絵」が行われた旧庄屋屋敷の跡です。贖罪の意味を込めて選ばれました。

 当時、東洋一といわれたこの教会は、原爆によって瓦解・炎上しました。
 あの日、参堂していた神父・信徒二十四人が建物の下敷きになり亡くなっています。教会に属する約一万二千人の信徒の内、八千五百人が被爆死したといわれます。

 天主堂の小聖堂には瓦礫の中から掘り起こされた、焼け跡の残る顔のみの被爆マリア像が祀られ、壁には被爆犠牲信徒の氏名が銘板に刻まれています。

 戦後、広島の原爆ドームに匹敵する長崎を代表する被爆遺構として永久保存を求める声は高かったのですが、破壊がすさまじく困難などの理由で全面撤去され歴史的遺跡は失われました。(一部が爆心地公園に移築されています)

 しかし、新たな天主堂正面には鼻や指がかけたマリア像やヨハネ像、敷地内の庭園には黒く焦げ跡を残し頭部さえ欠いた聖像、天使像などがあります。
また、直径五・五b、重さ約五十dという鐘楼ドーム(写真)が北側の川に転落しており、今も貴重な資料として、その場所に保存・公開されています。

山里国民学校  (現山里小)
 山里小学校は爆心地から北約七百bの位置にあります。
 被爆で、当日学校にいた三十二人の内二十八人の教職員が死亡、在籍児童千五百八十一人の内、約千三百人が死亡したと推定されています。
 
 コの字型の鉄筋コンクリート三階建ての校舎は、一部が崩壊、内部を全て焼失しましたが爆風に耐え、その姿を残しました。焦土の中に唯一建っていた校舎は山里地区の人々に生きる勇気と希望を与える支えになったそうです。この旧校舎は一九八八年に解体されました。

 新校舎は洋館風赤レンガのモダンな建物です。新校舎には平和記念館が設けられており、被爆後の写真や、防空ずきんなども展示されています。
 
 現在、残されている被爆の証は、旧校舎の階段の手すりと柱、裏門の門柱、防空壕(写真)などがあります。階段の手すりは平和記念館内に、一対の門柱の片方は、防空壕の横に、もう一方は原爆資料館に保存されています。

 正門を入るとすぐ、白御影石の中に、炎の中で天に祈る少女像の銅板レリーフがはめ込んだ碑があります。この碑は、作者名も碑銘もありませんが、隣に、永井隆博士の揮毫による「平和」の文字、裏に「あの子らの碑」と彫られた石柱があります。

 この碑は、永井博士の発案で、生き残ったこどもたちの手記を募り出版された「原子雲の下に生きて」の印税をもとに建立されたものです。

城山小学校被爆校舎
 爆心地から五百bに位置する城山国民学校。九州初の鉄筋コンクリート3階建ての白亜の校舎は、被爆によっても倒壊は免れましたが建物には大きな亀裂が走り、内部は全壊・焼失しました。

 戦後は幾度も修復して使用されていました。老朽化で全部が取り壊されようとしましたが同校の育友会や同窓会などの強い要望で一部が貴重な被爆遺構として保存されました。

 現存するのは、当時の北校舎階段塔屋部分で、平和祈念館として公開されています。館内には犠牲になった教師の遺影や、投下直後の写真なども、建物の傷跡とともに展示されています。

 その日学校にいた教師二十八人、庁務員三人、三菱兵器製作所員五十八人、挺身隊員十二人、学徒報国隊員四十二人が爆死。
 学校に居て生き残ったのは十八人(校舎の一部は三菱兵器製作所の事務室として使用されていました)。在籍児童は約千五百人いましたが、生き残ったのはわずか五十余人でした。

 校内には、学徒報国隊員として勤務中に被爆即死した林嘉代子さん(県立高女四年・十六才)のお母さんが娘と被爆死した女学生の慰霊にと寄贈された「嘉代子桜」。両親を原爆でなくした少年をモデルに、台座には、出征していた父を除く家族の全てを失い奇跡的に助かった少女が書いた平和の文字が刻まれた「少年平和像」などもあります。

長崎大学医学部
 原爆投下時、長崎大学医学部(旧長崎医科大学)では、講堂で講義が行われていました。この講堂にいた教官や学生たちの多くは倒壊した建物の下敷きになり、その後発生した火災で焼死しました。

 辛うじて脱出した人たちも一か月以内に急性の原爆症で全員が死亡しました。大学関係者と学生の死者数は八百九十五人にのぼっています。学長はじめ、これらの犠牲者名は真鍮製銘板に刻まれ、医学部記念講堂に掲げられています。

 医科大学は大部分が木造建築だったため、ほとんど全壊・全焼しました。現在、残っている被爆建造物は、当初宿泊施設としてつかわれ、被爆時には受電室となっていたゲストハウス一棟のみです。
分厚いコンクリートの建物で大きく破壊されることもなく原型を留めています。

 大学校内のグビロヶ丘には被爆した大講堂玄関にあった柱を使用した「慰霊碑」が建ち碑の裏面に同大学教授であった永井隆博士の「傷つける 友をさがして火の中へ とび入りしままかえらざりけり」の歌が刻まれています。

 当時の長崎医科大学・同付属薬学専門部の正門の石造の門柱(写真)も残されています。一・二b四方、高さは土台を除くと一・八b、およそ七dはあるといわれる門柱が、強烈な爆風で、前方に約九aずれ、十度ほど傾き、後方が十五aほど浮き上がったままになっています。