核廃絶へ
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2006年8月10日(木)「しんぶん赤旗」
長崎市の平和式典

核保有国の姿勢批判。
長崎市長 式典で平和宣言

息子の命 放射線が奪った。
被爆者代表 中村キクヨさん


写真

(写真)長崎市主催の被爆61周年平和式典=9日、長崎市・平和公園

 長崎市主催の平和式典が九日、同市・平和公園で開かれました。犠牲者を追悼し、核兵器廃絶への思いを新たにしました。

 式典では、この一年間に死亡が確認された二千八百三十一人の名簿が納められ、総計は十四万百四十四人になりました。

 伊藤一長長崎市長は、「長崎平和宣言」の中で核兵器廃絶に真摯(しんし)に取り組もうとしない核保有国を批判し、「今こそ被爆者をはじめ、平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器全廃に取り組むべきだ」と訴えました。

 日本政府には、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化、被爆者援護の充実を要求。「力強い核兵器廃絶と平和のネットワークを、ここ長崎から世界に広げていきましょう。被爆者の願いを受け継ぐ人々の共感と連帯が、必ずや核兵器のない平和な世界を実現させる」と力を込めました。

 被爆者代表の中村キクヨさん(82)が、放射線によって二男を奪われた体験を声を震わせながら訴え、「平和への誓い」を述べました。

 小泉純一郎首相は「(被爆者への)援護施策を充実させてきた」などと実際の姿とはほど遠いことをのべました。


中村キクヨさん(82)の「平和への誓い」

 あの日と同じような炎天下の九日、しめやかに開かれた長崎市の平和式典。長崎に原爆が投下された午前十一時二分、長崎の鐘とサイレン、「原爆を許すまじ」の音色が流れるなか、参列者が黙とう。被爆者代表として中村キクヨさん(82)が「平和への誓い」をのべました。


 「この日を、人々はけっして忘れ去ってはなりません。『長崎を世界で最後の被爆地に!』との、核も戦争もない平和な世界をつくろうという切なる、そして強い意志が込められている」

 凛(りん)とした声で語りはじめた中村さん。

 女学校を卒業すると同時に軍需工場に動員され、日の丸の鉢巻きをしめて一日一食だけで働きました。夫は戦地に、新婚生活も青春時代の楽しみもなく働いていた、その日のことでした。

 空襲警報解除の知らせを聞き、家で生後一カ月の長男を寝かしつけ物干しに洗濯物を広げていたときです。

 少し暗くなったのにキラキラするような光を感じて、見上げた瞬間。ゴォーという地鳴りと、ものすごい強風で吹きとばされました。

 爆心地から山越えした五・八キロも離れた旧小榊村での被爆でした。

 中村さんはその日から息つく間もなく重傷者の救護に追われます。前途ある多くの学生が全身やけどに苦しみ、のどをかきむしりながら「水をください」と叫ぶ姿に「この世の地獄をみました」と静かに語りました。

 三年前、五十五歳になった被爆二世の二男が白血病で亡くなりました。医師から「白血病は母体からもらったものです」といわれた衝撃。「放射線がまだ生きていたのです。この一言が忘れられず、いまも苦しんでいます」

 六十一年前の記憶を語ること、書くことの苦痛から避けていた自分を反省している―中村さんはこうのべ、最後に次のように結びました。

 「いま戦争のおろかさ、怖さ、むごたらしさを『伝えなければならない』との切羽詰まった思いがあります。戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子と重なりいてもたってもいられないからです。戦争がのこす国民や被爆者への“贈り物”は未来永劫(えいごう)にもういりません」