「しんぶん赤旗」2011/6/2
雲仙普賢岳・大火砕流災害から20年 
被災地・島原を訪ねる

 長崎県雲仙普賢岳のふもと島原市を襲った大火砕流から20c年。消えぬ恐怖の記憶と東日本大震災への思いを聞きました。(長崎県・村ア利幸)

  「鶏に餌をやっているときでした。鶏がものすごく騒ぎ、外に出るとトラックが上の方からびゅんびゅん逃げていました。何が起こったのかと思ったら、真っ暗な中を真っ赤な火が飛んでいました」。

体験まとめた
 当時、島原市・安中公民館係長だった杉本伸一さん(61)は、火砕流から命からがら逃げのびた人たちの体験を取りまとめました。自身も1年にも及ぶ避難所生活を強いられました。「6月30日の土石流で海岸部が流されると、一夜にして避難所が修羅場に変わりました」。被災住民が殺到したのです。

 ズボンのすそを引っ張られ、「どうにかしてくれ」と住民から哀願されたと言います。「被害の進行と状況によって、避難所はまったく違うものになります。1年もの長期にわたる避難所生活でストレスによるケンカなどトラブルが多発しました」と回想します。

模索を続けながら、住民自身が復興した

 災害当時に、日本共産党の島原市議だった上田泉さん(65)は、市議会で災害問題を担当する教育厚生委員会副委員長として救援・災害対策に不眠不休で当たりました。

 上田さんは東日本大震災の被災地への住民の苦難に思いを寄せつつ、「画一的な行政主導の復興ではなく、地域の人が望むまちづくりを進めていくことが必要」と話します。
 住民の生活再建と地域産業の再生などで住民が知恵を出し合った「がまだす計画」(島原地方の方言で「頑張る」を意味する言葉)で主導的な役割を果たし行政に実現を求めてきました。

東北へエール
 杉本さんは言います。「復興は復旧ではありません。島原市は、災害を契機に区画整理や耕地整理を行い、住みよいまちづくりを模索してきました」と強調。住民が主人公のまちづくり・復興再生計画を願っています。

 「東北も大丈夫。島原も復興できたのだから」雲仙岳災害記念館に寄せられたメッセージがありました。災害を乗り越えてきた島原の人たちの前向きな思いありました。


■長崎県雲仙普賢岳災害
 普賢岳は1990年11月17日、198年ぶりに噴火。高温のガスと岩石が山の斜面を駈け降りる火砕流が発生、1991年6月3日に起きた大火砕流では島原市上木場(かみこば)地区で43人の犠牲者、147棟の家屋が焼失する大惨事となりましまた。
 その後も火砕流と土石流の被害が広がり、島原市の避難は最大時7208人に及びました。被害家屋は2511棟、被害総額は2300億円に上りました。被害は発生から4年半つづき、1995年2月に噴火活動は停止しました。