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「しんぶん赤旗」2007/8/22
原爆症認定へ立ちあがる被爆者たち
 長崎市 木村不二男さん(76)


 許せない。被爆者の苦しみをわかっていない」。久間前防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言に対する怒りを抑えきれずに語ります。あの悲惨なできごとを思い浮かべたら今でもぞっーとすると言います。

家の中で被爆
 爆心地から約二キロの八千代町で被爆。当時十四歳、高等小学校二年生でした。三菱電機の工場に報国隊として動員されていました。
 あの日。朝から空襲警報が鳴ったので工場には行かず、家の前で名札にする木札をかまぼこ板で作っていました。

 近所の子どもたちが「飛行機の音のする」と帰ったので、カンナとかノコギリを持って家の中に入り、押入れの中の道具箱に入れようとしたときでした。
 ピカッ、ドーンと大きな音。家が倒れました。はりの三角になったところに仰向けに閉じ込められました。近くの工場で働いていた父と兄が助けに来てくれました。

 木村さんたちは山手にある竹やぶの防空壕に逃げました。その途中見たものは−。裸で歩いている女の人、頭中血だらけの兵隊、片手がぶらさがっている人・・・。ひどい光景だったといいます。

 爆心地から約1.5キロの銭座一丁目の親戚に預けていた布団と柳行李を取りに行きました。その途中の砲台の広場にたくさんの人が倒れて死んでいたといいます。防空壕に戻るとたくさんの人が避難してきていました。
 壊れた水道から噴き出していた水で体を洗って寝ました。防空壕の中はやけどした人のただれた臭いでいっぱいでした。

伊王島に移り
 八月十三日に父の故郷の伊王島に移りました。しばらくして家族みんなの髪の毛が抜け始め、下痢をするようになりました。
 父が伊王島の炭鉱で働くようになって生活できるようになりました。

 木村さんも、伊王島の炭鉱が閉山になるまで働きました。その後高島、池島の炭鉱で坑外の仕事をしました。

身体の中が…
 二十代のとき、体調が悪く、疲れがとれないため病院で検査しました。病名は慢性肝炎。「外見はどうもなくても身体の中をやられている。つらさは本人にしかわからない」と木村さんは言います。

 実際、胃潰瘍や肝炎で入退院を繰り返しました。鼻血も出やすく、下痢もよくします。長崎大学病院で十一例目という珍しい心臓の病気でも入院、手術をしました。
 木村さんは、いまでも週三回、慢性C型肝炎の治療に通っています。原爆病院にも月一回検査に行っています。
 病院でこれらの病気の原因を聞いても、原爆との関係はわからないといわれます。木村さんは原爆のせいだと思っています。

 同じように被爆した母親は一九五〇年に肝臓がんで亡くなり、姉も皮膚がんの手術を何回もしています。

 〇二年十二月、原爆症認定却下。「国はどうして私たちの声を聞こうとしないのか。残された命もわずか。裁判所の決定にすぐ従ってほしい」。木村さんたち原告の共通した痛切な願いです。「あの苦しみ、恐ろしさは経験した者にしかわからない。もう二度と繰り返してほしくありません。核兵器をなくしてほしいんです」。(長崎県 原口一二美)