2007年5月12日「しんぶん赤旗」

諫早湾閉め切り10年 第2部

まやかしの公共事業(3)

「防災」を殺し文句に


写真

(写真)干拓事業推進の「殺し文句」に使われた諫早大水害(1975年、右側)と、長崎豪雨災害(82年)のそれぞれの報道記事

 一九五二年に始まる長崎県単独の「長崎大干拓構想」以来、現在の国営諫早湾干拓事業まで共通して計画されたのは、「複式干拓」といわれる干拓方式です。

 この方式は、海湾を潮受け堤防で閉め切り、堤防内に淡水湖(調整池)と干拓地を造成するものです。淡水湖と干拓地の間は内部堤防で仕切られます。

大惨事に

 長崎県はこの淡水湖が遊水池として防災に役立つと突然、大キャンペーンを始めます。それは八二年七月に長崎豪雨災害があったからです。長崎豪雨災害は、死者二百九十九人、被害総額三千億円という大惨事でした。長崎県では死者五百三十九人を出した諫早大水害(五七年七月)があり、豪雨によるまれにみる大惨事を二度も経験しています。この惨事が事業推進の「理由」に使われたのです。

 当時、諫早湾全体を対象にした干拓計画「南総」(長崎県南部地域総合開発計画)が立ち往生していました。長崎県は八一年十月、諫早湾内十二漁協の埋め立て同意をとりつけたものの、諫早湾外の佐賀、福岡、熊本三県と長崎県島原半島沿岸の漁民が激しく抵抗。計画は、前に進めない状況にありました。

 そこに起きた大災害。長崎県は、それまで「水と緑の南総開発」と宣伝していたうたい文句を「水と防災の南総」に塗り替えたのです。

 「長崎県は天災を事業推進の殺し文句にすることを思いついたのである」(『有明海干拓始末』西尾建著)。

一方の手

 当時の災害調査では(1)自然条件を無視した宅地の乱開発(2)植生に対する配慮がはらわれず、自然林が破壊されていた―などの結果、がけ崩れが誘発され被害が増幅したと指摘されています。

 全国漁業協同組合連合会の公害・環境問題担当者だった西尾さんは、「長崎県が一方の手で乱開発や山の荒廃にくみし、一方の手で治山・防災をはかりたいとは笑止千万である」(同書)と、長崎県の態度を批判しています。

 実際の諫早大水害は、市街地を流れる本明川の橋げたに崩壊家屋や流木が詰まってダム化し、河川水が氾濫(はんらん)して発生したもの。淡水湖の遊水効果で防げるようなものではなかったのです。

 ところが、国営の諫早湾干拓事業でも、農水省は防災を事業目的の柱に位置づけ、「洪水のない安全な諫早市」になるかのように宣伝しました。反対漁民の切り崩しに「諫早市民を洪水から救うために協力してもらいたい」といった殺し文句も使われました。(つづく)