2007年5月11日「しんぶん赤旗」

諫早湾閉め切り10年 第2部

まやかしの公共事業(2)

漁民の闘争 半世紀に


写真

(写真)漁民のたたかいを記録した西尾建さんの著書

 有明海や諫早湾の干拓計画は、一九五二年の「有明海総合開発計画」と同時並行で進んだ「長崎大干拓構想」が始まりです。漁民のたたかいも以来、半世紀にわたることになります。

 干拓計画と漁民のたたかいの歴史は八五年に日本評論社から出版された『有明海干拓始末』に詳しい。著者は全漁連(全国漁業協同組合連合会)の公害・環境問題担当者だった西尾建(たつる)さん。

 干拓史としては推進側がまとめた『諫早湾干拓のあゆみ』があります。西尾さんの本は被害者の側、漁民の側からまとめている点で貴重です。しかし、絶版になったままです。

 本の副題は「たたかいぬいた漁民たち」と過去形になっています。出版されたのは、農水省が諫早湾干拓事業に着手する八六年の前年です。

昔も今も

 諫早湾はすでに閉め切られて十年。神奈川県相模原市に在住する西尾さんは今の思いをこう話します。

 「今のような漁業の深刻な事態を予測していたわけではないが、島根県の中海・宍道(しんじ)湖や岡山県の児島湾、秋田県の八郎潟など全国の干拓地がうまくいってないことがわかっていたから諫早湾干拓もうまくいかないと思っていた」

 電話の向こうで、「もう年(二五年生まれ)だし、現地に行く気力もないし…」と、遠慮がちに話す西尾さん。副題については、「南総(長崎南部地域総合開発計画)もつぶれたし、漁民のたたかいもこれで終わりにしたいと願って書いた」といいます。それが終わらず、漁民のたたかいがまだ続いています。

 「とにかく松岡利勝さんが農水大臣になるような国だから」と残念さをちょっぴり皮肉にこめました。

ほんろう

 「有明海総合開発計画」は、有明海全体(十七万ヘクタール)を湾口部で閉め切って干拓地(四万二千ヘクタール)と広大な淡水湖(調整池)を造成するもので、食糧難時代の反映でした。

 食糧が増産され、工業化が進むにつれ、計画は立ち消えになりました。

 長崎県単独の「長崎大干拓構想」は、水田造成を目的に諫早湾全体(一万ヘクタール)を閉め切る計画でした。この計画も漁民が強く反対し、七〇年の知事交代で中止になりました。

 しかし、直後の七〇年四月、土地(畑地・酪農地)と水資源確保を主目的に衣替えした「長崎南部地域総合開発計画」(南総)が登場しました。計画発表から中止までの十年余。西尾さんは「事業推進者側の勝手な都合・思惑によって、事業の目的さえ気ままに変えられた」(同書)と指摘しています。

 そのたびに漁民はほんろうされてきました。(つづく)