2007年5月10日「しんぶん赤旗」

諫早湾閉め切り10年 第2部

まやかしの公共事業(1)

「角栄」への贈り物


 諫早湾干拓事業は、事業着手以来二十一年間、約二千五百億円の巨費をつぎ込んで二〇〇七年度で完了の予定です。この巨大公共事業が、地域住民にどれほどの希望や展望を与えたといえるのか。事態は希望とは逆の方向に進行しています。地域住民を苦しめる公共事業とはいったい何なのか。「諫早湾閉め切り十年」を改めて検証してみました。(ジャーナリスト 松橋隆司)

 現在進行中の諫早湾干拓事業の前には三つの干拓計画がありました。前二つの計画がつぶれ、三つ目に登場した「長崎南部地域総合開発計画」(南総)も一九八二年に中止の危機を迎えます。

 当時、この「南総」干拓計画の旗を先頭に立って振ったのは、「金権の久保」といわれた久保勘一長崎県知事(七〇年三月―八二年三月在任)。干拓計画の実現に知事みずから漁民の説得にあたり、補償金を積み上げて反対漁協を切り崩してきました。

 諫早湾内十二漁協のうち最後まで残った瑞穂漁協も八一年十月、埋め立てに同意、十二漁協は漁業補償協定に調印しました。

 しかし、諫早湾外の有明海沿岸漁民が諫早湾全体をつぶす「南総」に危機感を抱き、反対に立ち上がりました。さらに、中曽根内閣が八二年十一月二十六日に発足、かねて「反対」を公言していた長崎県選出の金子岩三衆院議員が農林水産大臣に就任。「南総には疑問がある」と打ち切りを示唆しました。

幹部驚く

 驚いたのは、県の関係者や湾内漁協の幹部。必死の思いで補償協定の調印にこぎつけたのに「いまさらなんだ」という思いもあります。何とかしなければと考えついたのが、当時、ロッキード事件で公判中だった田中角栄元首相(故人)への陳情でした。

 九三年に財団法人「諫早湾地域振興基金」が刊行した『諫早湾干拓のあゆみ』によると―。

 陳情発案者の山下正信・元泉水海漁業権者会長(泉水海は諫早湾の別称)の回想がリアルです。

 同氏は県の担当者と相談して長崎市内の鼈甲(べっこう)店で、「恐らく市内では一番上等の大きな帆船を買い、それに『越山丸』と名付けて船体に彫りこんで貰(もら)った。次にそれよりやや小さい宝船に『南総』と名づけ、時の田中派に所属しておられた本県選出の久間代議士への御贈答品とした」。

 「越山」は、田中元首相の後援会「越山会」。「久間代議士」は、現久間章生防衛大臣で、八〇年の総選挙で初当選したばかりでした。

引き受け

 これらの品物は厳重に梱包(こんぽう)し保険をかけて空輸。山下氏も、急きょ上京し、羽田で品物を受け取り、大型タクシーで搬送しました。

 「翌日午前九時二十五分久間氏と目白の田中邸へ到着」。一時間ほど待たされたあと、田中元首相に面会。贈答品の梱包をとくと、「田中先生、ジーッと御覧になっての第一声、『これは立派なものだ』」と感嘆。すかさず山下氏が事業継続の予算措置を陳情すると、「よーしわかった。俺(おれ)が引き受けたよ」と約束します。

 同年十二月下旬、今度は、十二漁協長がそろって田中邸へ。このときの様子は同席した久間氏みずからが語っています。

 「我々の目の前で、当時の大蔵大臣竹下登先生に電話をし、『ともかく廃止や中止だけはするな、そのうち知恵を出して解決策をみつけるから』と事業継承を承認してもらった」

 田中元首相は農水省の森実(もりざね)孝郎・構造改善局長にも電話をし、竹下登蔵相(故人)に「南総」の予算をつけろといったことを伝えています。山下氏は「かくして南総事業から諫早湾干拓への最大の危機は救われたのである」と締めくくっています。(つづく)