命ある限り語り続けたい…
被爆体験の語り部としてがんばる内田保信さん
 内田保信(やすのぶ)。1928年生まれ。16歳の時に被爆。その後、労働組合書記などをつとめ、日本共産党に入党。
 日本共産党長崎地区委員長、県常任委員など歴任。長崎県で初めての日本共産党の県会議員となる。48歳でくも膜下出血で倒れるが、数年間の療養リハビリで、体調が回復。以後、語り部
活動を本格的に行う。
 現在、日本共産党長崎県委員会の顧問もつとめている。
 2001年8月7日、原爆被災者協議会の講堂で、青森県や神奈川県から原水爆禁止世界大会に参加した人たちを前に、内田保信さんの声が響きます。
 話のはじめに、自らの右手のケロイドを参加者に見せるなど、最初から聴衆は内田さんの話に引き込まれます。
 被爆したときのようす、その後の生死をさまよう闘病生活、子どもが生まれるときの大きな不安…、生々しい内田さんの体験談は、核兵器のむごさを聞く人に教えます。  
 自らの「核兵器廃絶」への思いと、一人ひとりが核兵器廃絶は可能なことを確信にして、努力して欲しいということを訴えて、約40分の話を結びました。
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 内田さんは、被爆者の組織が誕生した24歳頃から被爆体験を人々に語ってきました。日本共産党の指導者や県会議員であったときも、時々、語り部として市民の前に立っていました。
 語り部が主な活動となったのは、病気で倒れ、そこから回復してからです。
 主な話の相手は、全国から修学旅行で長崎を訪れる、小、中、高の子どもたちです。「うちの生徒たちは態度が悪いので、話をちゃんと聞けないと思います」と、先生が前もって「釈明」した生徒さんたちでも、内田さんが話し始めると、じっと最後まで聞いてくれるそうです。
 「未来をつくる子どもたちから、お礼や感想の手紙をもらったときが、語り部として一番幸せです」と語る内田さん宅には、千羽鶴など全国の子どもたちの手作り贈り物も少なくありません。
 「命のある限り、語り部の活動を続けたいです。特に、『人がつくった核兵器は人々の運動で廃絶できるという確信』を、みなさんに伝えつづけていきたいのです」と、力強く語ってくれました。