2019年8月3日【国民運動】
「2歳の時に入市被爆した被爆者ですが、被爆したという記憶がないのに、証言なんてできない、とずっと思っていました」。そんな山本幸子さん(75)が語らなければいけないと思った出来事がありました。10年間にわたり、さまざまな病気で苦しんだ弟が、ことし73歳で亡くなったことです。(加來恵子) 母親が、2歳の幸子さんと生後5日の弟を連れて長崎市内に入り、被爆したのは、1945年8月10日のことです。それから、戦後に生まれた次男を含めて4人とも、がんなどの病気を患い苦しんでいます。
▲弟は治療専念
弟は、1998年にメニエール病を発症し、2003年に肺のう胞手術を受け、2009年に肺がん手術を受けるも、3年後に左肺に転移し再手術。苦しみながら治療に専念していました。
昨年の暮れに、「余命は3カ月」との宣告を受けてからは、メガネを買い替え、タブレットを買って楽しむ一方、遺影を選び、車を処分するなど、死に支度をして、最後は自宅で眠るように亡くなりました。
2番目の弟は、兵庫県宝塚市に住んでいます。
脳梗塞の手術をし、胃がんで3分の2を摘出しましたが、大腸に転移し、15年に手術。前年の14年に皮膚がんの手術を受け、「もうこの体はどうなるかわからん」と嘆きながら、入退院を繰り返しています。
▲異変は30年後
母親に異変が起きたのは、被爆から30年がすぎたころからです。
1975年、56歳の時に白内障手術。87年に乳がんを患い手術。93年に脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血で倒れ、一命を取りとめました。95年には卵巣のう胞手術をし、2003年には、顔面皮膚がんを手術。08年に大腸がんと肝臓がんを患い10年に91歳で亡くなりました。
「たくさんの病気を抱えながら、そんなそぶりを見せませんでした。心配かけたくなかったのではないかと思います」と幸子さん。
幸子さん自身は、40歳で腰痛、膝関節痛、50歳で急性緑内障両眼手術をうけ、61歳で狭心症、68歳で白内障両眼手術を受けています。
「私もいつ母や弟たちのようにがんになるのか。3人いる子どもたちは、いまは元気にしていますが、将来どうなるか不安です」と語ります。
家族が次つぎに原爆症と思われる病気にかかる不安と、国が起こした戦争によって原爆投下が引き起こされたにもかかわらず、被爆者への国家補償がないことへの無念さとも憤りともいえる思いが募ります。
長崎市では、国が定めた被爆地域の外にいた被爆者を「被爆体験者」と呼び、被爆体験者精神医療受給者証を交付しています。夫の誠一さんは、「被爆体験者」です。今年、6月はじめに突然胸が苦しくなり心筋梗塞と診断されました。被爆の影響だと考えています。
「私たち被爆者は、被爆から74年たったいまも苦しみを抱え、不安な日々をすごしています。その気持ちがわかりますか」
▲改憲は許さぬ
被爆者の思いが世界を動かし、国連で核兵器禁止条約が採択されましたが、「禁止条約に背を向けている被爆国である日本政府の姿勢は絶対に許せない」と憤ります。
日本政府に対し、一日も早く禁止条約に署名・批准することを強く訴えたい、再び被爆者をつくらない証しとして国家補償の被爆者援護法をつくることを求めたいという幸子さん。
「あの悲惨な戦争と原爆の犠牲のうえにつくられた日本国憲法9条の改悪は絶対に許すわけにはいきません。被爆者のひとりとして、子や孫が平和な世の中で安心して暮らせるよう微力ながら訴えていきたい」
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