「しんぶん赤旗」2019/8/9
長崎で被爆 溝浦勝さん(78) 12歳に死の覚悟強いた教育

201989日【政治総合】

当時とダブる戦争する国づくり 「9条守らねば」

 「1945年の7月、8月は、疎開先の三菱長崎造船所があった長崎市飽(あく)の浦(爆心地から3・4キロメートル)で頻繁に空襲警報が鳴り響き、米軍機が急降下して、パイロットの顔が見えるほど低空飛行し、機銃掃射している姿におびえ、押し入れに隠れたことが今も夢に出てきます」

 当時4歳だった溝浦勝さん(78)の戦争・被爆体験です。

▲いつも空腹
 戦争中、食糧不足のため、家畜の飼料の豆のカスやふすまの材料しか食べられず、いつもおなかをすかせていました。
 長崎に原爆が投下された1945年8月9日。父親と(小学校)6年生の兄(長男)は、早朝から諫早(いさはや)に食糧の買い出しに行っていました。
 近所の子どもたちと遊んでいた溝浦さんは、閃光(せんこう)にびっくりして自宅を目指しました。爆風に吹き飛ばされ、気がついたら、母親の腕の中にいました。
 塀は崩れ去り、屋根は飛び散り、ガラスは粉々になりましたが、2年生の次男と溝浦さん、母親には大きなケガはありませんでした。
 買い出しに行っていた父親と長男は、家に戻る途中で見た浦上の惨状に、食糧の入ったリュックを投げ出し、急いで自宅に帰ってきました。300メートルくらい離れた防空壕(ごう)からは一晩中、真っ赤に燃える町が見えました。

 翌日、父親と長男がリュックを拾いに行きました。運よく見つかり、食糧を確保しました。爆心地近くには缶詰工場があり、原爆投下で飛び散った缶詰も拾って食べました。
 落とされたのが原爆だとは知らず、放射線の影響があるとは思いもしませんでした。
 一緒に遊んだいとこたちは、爆心地から1キロメートルくらいの所に住んでいたため、みな亡くなりました。
 母親は1961年、59歳のときにがんで命を落とし、次男は3度原爆症に認定され、2016年に骨髄性白血病を発症し、翌年の7月9日に亡くなりました。長男は17年1月に胆のうがんで亡くなりました。

▲少年特攻隊

 当時6年生の長男はよく言っていました。「飽の浦少年特攻隊分隊長に任命された。国のためにいつでも死ぬ覚悟でいる」と。
 当時、小学校の5、6年生は特攻隊に組織されていました。
 本土決戦に備え、竹やりの訓練をし、イモを手りゅう弾にみたてて、かじっては、投げていました。お国のために、天皇のために死ぬことこそ一番の喜びだと教え込まれました。
 わずか12歳の少年に、いつ死んでもいい覚悟をさせた教育と、安倍政権の「戦争する国づくり」とがダブります。
 「戦争さえなかったら、広島、長崎の悲劇はなかった。東京大空襲や沖縄の大惨事もなかったし、あんなにひもじい思いをすることもなかったのです。日本は、戦争を起こさぬよう憲法9条を持ちました。これを守らなければいけません」

 被爆者は、被爆の現状を世界に訴え続けてきました。
 「核兵器を禁止し、世界中から核兵器の危険をとりはらうことが、世界を平和にする唯一の道です。これを願っています」(加來恵子)