「しんぶん赤旗」2018/11/6
シリーズ憲法 被爆者は語る 長崎被災協副会長 横山照子さん
 原爆投下直後、祖母に連れられて、疎開先の長崎県島原市から両親の元に帰った、当時4歳の横山照子さんが見た長崎は、言語に絶するものでした。その長崎で育った横山さんにとって高校での憲法の授業は、「生活と密接に結びつけて考えられ、納得の連続」。家で、「戦争はもうないよ」と報告したのでした。その思いを語ってもらいました。
(長崎県・前川美穂)

 原爆が投下された直後、両親と1歳4カ月の妹のいる長崎に戻り、放射線の高い爆心地あたりを歩きました。あたりはシンとして「死の世界」に入ったような恐怖をおぼえています。
 父は当時、三菱電機製作所に勤務しており爆心地から1・2キロの渕中学校で被爆しました。被爆の瞬間、意識を失ったまま吹き飛ばされ、崖の下へたたきつけられました。母は爆心地から4キロの自宅にいて目もくらむような閃光(せんこう)を感じ、とっさに庭で遊んでいた妹におおいかぶさりまし た。あたりは一面真っ暗になり、金砂のようなものが降ってきたそうです。

 戦争への怒り
  父は重傷を負い、右目を失明しましたが、命はとりとめました。しかし、幼い妹の病状は深刻でし た。9月にはリンパ節(リンパ腺)がはれ、切開しましたが、苦しみを訴え続け、5歳の時、長崎大学病 院で声帯の手術を受けました。
 手術後、妹はかすれ声しか出なくなり、入退院をくり返しました。中学校も登校したのは1年生の1学期のみで、44歳で亡くなるまで病院生活が続きました。
 亡くなる前は両目とも失明し、「私は何重苦? 何の罰を受けているの?」と問われ、何も言えませんでした。妹のことを思うと今でも涙が出ます。青春も人生もめちゃくちゃにされた。悔しくて、原爆、戦争への怒りがこみ上げてきます。
 さらに戦後生まれた末の妹にも小学校入学のころ、紫斑病が襲いました。被爆後に生まれた妹にまで原爆の影は忍び寄り、必死で看病していた母の悲しみ、不安ははかりしれませんでした。

 前文暗記して
 私が憲法と出あったのは高校 の授業でした。最初に「憲法前文」を暗記し、一条ごとにすすむ授業は感動的でした。「九条」では「戦争は永久に放棄する。戦力は持たない」。うれしさのあまり、一目散に家に帰った私は、母に「軍隊も持っちゃいけないんだって!」と報告しました。
 そのころも、わが家では戦争・ 原爆の苦しみが続いていました。 母は原爆症で苦しむ父や妹たちの看病に追われる日々で、そんな母にこそささげたい「憲法」だったのです。
 しかし、9条を変えようとの動きが強まり、このままでは再び「戦争する国」になってしまうと、2007 年に被爆者の仲間と「ノーモア・ヒバクシャ九条の会」を結成しました。
 安倍首相が今国会で、改憲論議を進めようとしていることに非常に危機感を募らせています。まだ 戦後73年しかたっていないのに、「戦争のことはもういいさ」といっている場合ではない。私たちは、過去から学んで平和をつくっていかなければ。

 1970年に買い求めた「憲法手帳」は私のお守りで、いつも持ち歩いています。憲法9条は私が生きていく上での「道しるべ」ですから。