「しんぶん赤旗」2015/10/14・15
ベルギー・オランダを訪問
横山照子さん(74)に聞く
 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が呼びかける「ヒバクシャ遊説inヨーロッパ」に応えて、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)理事の横山照子さん(74)が、ベルギーとオランダを訪問し、核兵器の全面廃絶を各所で訴えました。帰国した横山さんに、その手ごたえなどを聞きました。(聞き手・阿部活士)

“キノコ雲の下では…”証言に聞き入る人たち

 私は、1978年の第1回国連軍縮総会で被爆の実相を訴えるために、代表団の一人となりました。それから何回か核兵器廃絶と被爆体験を語る海外活動に参加しました。しかし、今回(9月17日から23日まで)のように日本から1人で参加するのは初めてでした。

俳句フェスでも
 最初に訪問したのはベルギーです。

 中世からの古い歴史のあるヘント市を中心に証言活動をしました。ヘント市は、平和首長会議に入っていて、8月6日から9日にかけて、灯篭流しをして、10年になります。ことしは、9月下旬まで平和のとりくみをする期間だと聞きました。

 市民集会では、ベルギーの平和団体の人が、原爆の解説をして、私が証言しました。原爆が投下されたことは知っていても、そのキノコ雲の下でどんな生き地獄だったのか。両親と姉妹のことを話しました。被爆証言は初めて聞くのか、物音立てずに静かに聞き、涙を流した人もいました。手ごたえを感じました。

 国際俳句フェスティバルにも招かれました。元ベルギー首相で、欧州理事会議長を務めたヘルマン・ファンロンパイさんに、田上富久長崎市長の書簡を手渡すときに、日本でも俳句や短歌、詩などで原爆のことを訴えていると話しました。

 例にあげたのは、長崎の被爆者でなくなった松尾あつゆきさんの「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」という俳句です。自身と長女以外の家族を原爆が奪ったことを告発した句です。

 当時は占領した米軍によるプレスコード(報道や出版の規制)で、原爆を扱ったものは長期間発表できなかったことも説明しました。すると、ヘルマンさんは、田上市長の書簡を読み上げました。核兵器廃絶に尽力くださいというメッセージが伝わったと思いました。

「教材に」の声も
 「マニフェスタ」という催しに参加しました。1万人規模で広場にいろんなテントが並ぶ赤旗まつりのような雰囲気です。室内の催しに「平和コーナー」があり、私の証言には、さまざまな質問も出ました。「憲法9条は大丈夫か」「原発を再稼働するのはどういうことか」。日本の現状を知っていて、かつ、心配していました。

 私は「9条を守るためにたたかっています」、「被爆者は原発に反対だけど、いまの日本政府は福島の教訓をくみ取っていない」と答えました。

 子どもが日本語を学んでいるという母親から、私の証言を使っていいか、と聞かれたときはうれしかったですね。もちろん、「教材なり、自由に使ってください」と答えました。

 川べりで開いたイベントには、「長崎から来た被爆者です。核兵器は廃絶しなければいけません。みんなでがんばりましょう」とあいさつし、「ノーモアヒバクシャ、ノーモアウォー」と大きな声で叫んだら、大きな拍手と歓声があがりました。気持ちよかったですね。


“初めて被爆者の話を聞いて心うたれた”

 駆け足訪問となったオランダ。オランダ赤十字に招かれ、アムステルダムにある大学で証言しました。「なぜ、赤十字で話をするのか」と聞かれました。私は、「私たちは被爆したときに真っ先に駆けつけてくれたのが赤十字の人たち。その要請ですから」とこたえました。
 そして、私は話し始めました。

 7月末、4歳の私と2人の姉は田舎に疎開しました。自宅には両親と1歳4カ月の妹が残りました。

 原爆が落とされたとき、父は兵器工場として使われていた学校で被爆しました。爆心地から1・2キロメートルの地点です。

 母は爆心地から4キロメートルの自宅でした。B29の来襲を知り、部屋の中から「リッちゃん」と呼んだとたん、目のくらむような閃光(せんこう)を感じ、とっさに母は外で裸で遊んでいた妹のうえへ体をかぶせました。あたり一面真っ暗になり、金砂のようなものが降ってきたそうです。

 4日目、重傷の父が会社の防空壕へ運ばれているという連絡を受け、母は妹をおんぶし飛んで行きました。

 妹は、9月に入ってリンパ腺が腫れ、切開しましたが、だんだん声がかれて、ゼイゼイ、ヒイヒイと苦しみを訴えました。5歳の時病院で声帯の手術をしました。病室では子どもたちが、次々と白血病で亡くなっていきました。屋上から飛び降りた娘さんもいました。

怒りがこみ上げる
 妹の声は、小さなかすれ声しか出なくなりました。入退院の繰り返しで、学校も3年遅れて中学校に入学しました。1年生の1学期しか登校できず、44歳で亡くなるまで病院生活が続きました。亡くなる前は両眼とも失明し、暗闇の中にいる妹から「わたし何重苦?何の罰を受けているの?」と問われ何も言えませんでした。

 妹のことを思い出すと切なくて、悔しくて、戦争・原爆への怒りがこみ上げてきます。
 私は原爆投下後すぐに、疎開先から長崎市に戻りました。あたり一面焼け野が原で、身体中に何とも言えない恐怖が押し寄せ、「死の町」に立ち入ったようでした。それ以降、私は極度の貧血症に苦しんできました。

 被爆3年後に生まれた末妹に、小学生入学の頃、紫斑病が襲いました。幸いに妹の生命は助かりましたが、被爆後生まれた妹にまで、原爆の爪あとは押し寄せてきたのです。

 母は1972年、64歳で胃がんで亡くなり、3年後に父が肺がんで亡くなりました。疎開先からいち早く長崎に帰った上の姉が、2年前白血病になり、今闘病生活を送っています。下の姉は皮膚がんに始まりいろんながんにかかり、昨年胆管がんで亡くなりました。

 原爆さえ落とされたなかったら、私の家族は健康で楽しく暮らせたと思います。

 原爆はあの日ばかりでなく、その後も、今も、これからも被爆者を苦しめ続けます。

人道に反する兵器
 核兵器は人道に反する兵器です。

 みんな、涙を流しながらじっと聞いてくれました。

 シリアから逃れているという女性が「自分のところも家をメチャクチャにされた」と意見をのべていました。

 オランダの大学に学ぶ日本人も聞きにきていて、話が終わったあとに残って、「初めて被爆者の話を聞きました。心うたれました」といわれたときは、よかったなと思いました。

 ベルギーは、北大西洋条約機構(NATO)の本部がありアメリカの核兵器も配備されている国です。そういう国の市民と、しかも未来を担う若者たちとたくさん草の根交流ができて、本当によかったです。