「しんぶん赤旗」2011/11/3
福島原発事故受け…今語らなければ
 「一粒のブドウの味、忘れられない」 
70代姉妹、被爆の実相証言

 長崎の平和活動団体「P‐NATS(ピーナッツ)」は11月27日、6回目の被爆者訪問を行いました。
「被爆体験の継承と発信」を目的として県原水協と連携して企画し、昨年11月から聞き取りを続けています。(長崎県・村ア利幸)


 長崎市に住む姉妹Aさん(77)とBさん(71)から話を聞きました。当時11歳と5歳の2人が被爆したのは、爆心地から約800メートルの地点。「まさに地獄絵図でした」と当時の状況を語ります。

 姉妹と弟(当時3歳)の3人が、防空壕(ごう)の入り口で遊んでいると、突然閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)に襲われ、爆風で体ごと壕の奥まで吹き飛ばされました。ショックでぼうぜんとしていると、避難してきた人たちで壕は満員になりました。
 避難してきた人たちの多くは大やけどを負い、顔や手足の皮膚が焼け落ちて真っ赤な肉がむき出しの状態。髪の毛は焼け焦げてほとんど残っておらず、途切れることのないうめき声をあげています。

 3人はおびえ、震えるだけでした。人の多さに、横になることはおろか、外に出ることさえできません。次々と死んでいく人の横ですごしました。
 3日目、倒れた人々の間を縫って、やっと外に出ることができました。防空壕の中の異臭や暑さに耐えきれず、外で野宿したものの、3人とも下痢やおう吐を繰り返し、衰弱しました。

 生き残ったAさんらの祖父が探しにきましたが、衰弱しきって何も食べようとしない3人に、「食べんば死ぬぞ」とどこからか手に入れたブドウを与えました。それをきっかけに3人は配給のおにぎりを食べられるようになり、元気を取り戻すことができました。Bさんは「このときの一粒のブドウの味を今でも忘れられない」と語ります。

 Aさんらは祖父に連れられて自宅に帰る途中、焼けた電車の中から手を伸ばした状態で亡くなった黒焦げの遺体や、水を求め、川辺に何十人と折り重なって亡くなった遺体を見ました。

 Bさんは「このような悲惨な出来事があったことを日本人は忘れてしまう。今の子どもは原爆犠牲者によって生かされている命でもあることを考えてほしい。被爆体験を若い世代に伝えてほしい。核兵器の犠牲者は広島と長崎で十分です」と訴えました。

 AさんもBさんも、被爆体験の証言を行うようになったのは最近のことです。原発事故の放射能被害の現状に「今、語らなければ」という思いにかられ、今回の被爆者訪問に応じました。

 参加した29歳の男性は「初めて聞く被爆体験の悲惨さに圧倒されました」と感想をのべました。