2006年6月4日(日)「しんぶん赤旗」

雲仙普賢岳・火砕流から15年

今も頭を離れない

追悼式典で遺族


写真

(写真)献花する火砕流犠牲者の遺族=3日、長崎県島原市

 長崎県の雲仙・普賢岳の噴火で発生した一九九一年六月の大火砕流では四十三人の犠牲者を出しました。大惨事から十五年にあたる三日、島原市で同市主催の「雲仙・普賢岳噴火災害十五周年犠牲者追悼式」が行われ、故人を追悼し噴火災害の教訓を後世に伝える誓いを新たにしました。

 九三年の犠牲者一人を含む四十四人の名前が刻まれた「火砕流犠牲者追悼の碑」(同市仁田団地)前には、遺族をはじめ関係者約四百人が参列。同市のシンボル眉山の後ろにそびえる普賢岳はこの日、白いもやでほとんど見えません。

 吉岡庭二郎島原市長は、四十四人を追悼するとともに十五年間の復興の状況を報告。全国からの支援に改めて感謝を表明しました。

 追悼の音楽が流れるなか、犠牲者一人ひとりの氏名が読み上げられ遺族の献花がおこなわれました。さまざまな思いを込めて「追悼の碑」に手を合わせる遺族の姿にハンカチで目頭を押さえる人も目立ちました。

 遺族を代表してあいさつした、故小鉢亮二さん=当時消防分団長=の父親、小鉢藤彦さんは「あの日の大惨事のことが頭を離れません。心が癒えることはありませんが、ふるさとの再生を願いこれからもがんばります」と語りました。

 普賢岳は九〇年十一月、百九十八年ぶりに噴煙をあげ次第に活発化。翌年から火砕流や土石流が続発し、島原市と深江町(現南島原市)に甚大な被害を及ぼしました。終息宣言は九六年六月。住民の避難生活は四年七カ月に及びました。現在、普賢岳火口の温度は年々低下しているとはいえ、溶岩ドーム崩落の危険はなお続いています。