赤嶺政賢議員の53年あゆみ   あかみねせいけん

                  

      

             沖縄に生まれて−日本共産党・赤嶺議員が歩んだ53年 
 
☆出生から1973年まで

1947年(昭和22年)

・沖縄県那覇市宇栄原の農家に5名兄弟姉妹(2男3女)の3番目として生まれる。
・実家は米軍那覇基地(当時)のとなり。米軍の沖縄支配の横暴な実態やこれにたいする県民のたたかいを直接肌に感じながら少年時代を育つ。

1960年(昭和35年)

・那覇市立高良小学校卒業。

1963年(昭和38年)

・那覇市立小禄中学校卒業。

1966年(昭和41年)

・沖縄県立那覇高校卒業。19期生。
県内で伝統ある合唱部に所属−いま、本人の特徴となっている大きな声は合唱部での基礎訓練のたまもの。

同年

・国費留学生として東京教育大学・文学部に入学。沖縄県出身者の学生寮(南灯寮)、教育大学の桐花寮で学生生活−県出身者学生の中心となり、沖縄戦から続く米軍占領の圧政下で苦しめられている故郷・沖縄の祖国復帰とベトナム戦争反対を各地で訴える。在本土沖縄県学生会連絡会事務局長。東京沖縄県学生会事務長として奮闘。

1967年(昭和42年)

・大学2年時―アメリカと財界本位の自民党政治に反対し、沖縄の無条件全面返還と「国民が主人公」の日本をめざしてがんばっている日本共産党に入党。

1971年(昭和46年)

・東京教育大学文学部卒業。

同年

・高校教師となる。沖縄県石垣市の八重山高校と八重山商工高校で教鞭。明るく、正義感の強い、熱血教諭として次代を担う子どもたちの教育に情熱をそそぐ。たまに酒が入ると歌うイタリア民謡は今も同僚の語り草。

1972年(昭和47年)

・結婚(学生時代に祖国復帰運動の中で知り合った高校教師と)

1972年(昭和47年)

・5月15日、沖縄の「施政権」が返還。

1973年(昭和48年)

・沖縄人民党が日本共産党に組織的に合流。(日本国憲法が適用されてない米軍占領時代の沖縄では、日本共産党の活動が禁止されていた。)

☆1974年以降−日本共産党とともに
1974年(昭和49年)

・干ばつや台風などで生活と子どもの教育に苦しむ離島の人びとを目のあたりにし、一刻も早く政治を根本からただすことが必要と痛感、日本共産党八重山郡委員会の勤務員となる。毎日、那覇経由で空輸されて来るしんぶん「赤旗」の配達で石垣島をかけめぐる。教職をやめて給料がわずかな党の専従となった恩師に教え子も父母もびっくり。党八重山郡委員会副委員長を歴任。

1976年(昭和51年)

・那覇市へ転勤、党南部地区委員会に勤務。同副委員長、同委員長(82年−87年)。県常任委員などを歴任。

1985年(昭和60年)

・那覇市議会議員に初当選。97年の交代まで3期連続当選。地域では市民の身近な相談相手として相談所を開設、持ち込まれるさまざまな相談の解決に奮闘。弱い市民の味方、思いやりと高い解決力をもった議員として評判に。議会では、革新市政を支える大黒柱として尽力。

1991年(平成 3年)

・党県委員会書記長に選出される。

1994年(平成 6年)

・第20回党大会で准中央委員に選出される。

1997年(平成 9年)

・第21回党大会で幹部会委員に選出される。
沖縄県党会議で党沖縄県委員会委員長に選出される。

2000年(平成12年)

・古堅実吉代議士(衆議院議員3期)の後継ぎとして、九州と沖縄のみなさんの押上げによって、定数最後の480番目で衆議院議員(九州・沖縄比例ブロック)に初当選。 
 ■ 当選を報ずる沖縄の新聞  琉球新報 沖縄タイムス
・党沖縄県委員長と国会議員の兼任で東奔西走の激務をこなして「国民が主人公」の新しい政治の実現へ全力投球中。

赤嶺政賢ホームページより