暮らしに展望持てるよう、政治が支援を雲仙・普賢岳大火砕流から10年 
 「しんぶん赤旗」6月2日付けより

 長崎県の雲仙・普賢岳噴火災害のなかで、死者・行方不明者四十三人を出した一九九一年六月三日の大火砕流から、三日で丸十年となります。復興が進み「元気な島原を見にきてほしい」との思いの半面、大惨事がもたらしたつめ跡は、今も住民の中に深い影を落としています。(長崎県 田中康記者)

 当時、普賢岳のふもと、水無川のそばに住んでいた永石智恵美さん(48)は、数キロ離れた職場で大惨事の発生を知りました。「火砕流ということばも、その恐ろしさもまったく知りませんでした。半月前の土石流で家や畑を流され、土のうの積み上げや避難のことで頭がいっぱいでしたよ」と振り返ります。

 溶岩の塊や火山灰などが一千度前後の火山ガスと混合し、時速百キロを超える速さで山の斜面を一気に流れ下る火砕流。

 多くの消防団員やマスコミ関係者、市民をのみ込み、家や樹木を根こそぎ焼き尽くしたその日の大火砕流に直面し、被災者は「とにかく逃げよう」と、着の身着のままで避難しました。

 その瞬間から自宅への立ち入りが禁止され、法による警戒区域設定で生活のすべてが奪われました。避難場所のなかった鶏十一万羽、豚三百頭、牛三十頭の家畜は見捨てられました。

 噴火活動は四年間続き、火砕流が三百回を超えて発生した月は十七カ月を数え、被害も北側の千本木地域から中尾川流域一帯に拡大しました。

 この十年間、阪神大震災や三宅島噴火などの自然災害が相次ぎましたが、国の特別立法は見送られました。

 雲仙普賢岳災害の場合も、被災者の生活・生業支援は県や市(町)独自の基金事業に任され、「もっと住民の声にこたえる政治がほしかった」との指摘があちこちで聞かれます。

 「水と緑、歴史の街が、コンクリートの街に変わろうとしている」と現状を語る、日本共産党の上田泉島原市議は、「復興アリーナなど大きなハコモノはできたが、年間八千三百万円の維持費は地元負担。市民の生活安定と生業の確立を抜きに真の復興はない」と強調します。

 永石さんは、「基金を元にせっかく家を新築しても、収入が定まらず税金やローンがたいへんで手放す人も多いんです。火砕流で大黒柱をなくした家庭などは、いろいろあって深刻ですよ」と、複雑な気持ちを語ります。

 昨年四月、被災地の街づくりや住民間の交流を自らすすめようと、「NPO・島原普賢会」が発足、被災者からの報告誌を発行しました。まず、自らの体験や思いを全国に発信することで、少しでも全国の教訓になればと考えたからです。

 いま必要なのは、被災地住民が暮らしや営業に展望が持てるように、政治が応援することです。「あたたかい人が待つふるさとに戻りたい」「がんばってきてよかった」との思いにこたえる街づくりのために。

 

噴火災害の被害状況

 ・火砕流による死者、行方不明者 44人
 ・火砕流、土石流で被害をうけた家屋 2511戸
 ・法にもとづく警戒区域設定日数 延べ2124日
 ・体育館や仮設住宅での生活 約4年7カ月
 ・最高時の避難者数 1万1012人