私の被爆体験
   
     長崎原爆被災者協議会
          内田保信
 私はケロイドを身体に刻まれた被爆者として、全世界から一発残らず核兵器をなくすために、原爆被爆の語り部してとして活動している長崎原爆被災者協議会の内田保信です。
 私が原爆に出会ったのは、満16歳と9カ月の時でした。お天気がよいときには誰でも心が晴れますが、毎年8月9日、この日だけは夏の太陽がギラギラ照りつけるほど、長崎の被爆者は心が曇ります。1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。ちょうどその時、長崎の空はきれいに晴れていたからです。 
 今から40年ほど前に発行された「長崎市政65年史」に、原爆被害のありさまが詳しく書いてあります。 「1秒間に200bの風圧がおこった」。その時の爆風の速さは、秒速500〜600bといわれています。半径3キロメートル以内では爆風の圧力で、地面のあちこちに30センチメートルばかりの地盤沈下がおこり、いたるところで水道やガスのパイプは切れたといいます。
爆発と同時に、高い熱を持った火の玉が四方に飛び散って、近くであたると溶けるように死んでいく。一定距離があって命をとりとめても、醜いケロイドを残し、呪われた一生を送らなければなりません。
 火の玉の温度は、1.4秒間9,000度から11,000度。死者73,884人。けがや火傷をした人は74,904人にのぼりました。そして、2000年7月31日現在、原爆死没者の総数は124,191人になっています。
 
 私は旧制の中学生でした。戦争で勉強はとりやめになり、学徒動員で三菱長崎造船所の第三機械工場(大橋町)で働いていました。
 ところが、飽の浦、立神の主要な工場への爆撃もひどくなり、陸上に工場があったらまずいということになり、長崎市内の南、港の入り口近くの戸町トンネルを軍人さんたちが占領して、三菱造船所に貸したのです。私たちは「戸町トンネル工場」と言っていました。
 このトンネルの中に機械を持ち込んで戦争の道具である船をつくっていたのです。四という時を○で囲んで、「○四艇」と呼んでいました。船体はベニヤ板です。この小さな船に爆薬を詰め込んで、敵の軍艦に人間もろとも衝突するという、特攻兵器を作っていたんです。
 8月9日は、私と親友の中村君はたまたま、工場の仕事を休んでよい日に当たっていました。前日の8日、トンネル工場の中で機械を操作しながら、中村太郎君と相談して「9日は中村君のうちで下駄づくりをする」ことを約束していました。9日朝、家を出て下駄づくりに向かいました。すると爆心地のすぐそばの松山町の電停付近で、いきなり空襲警報が発令されました。バスや電車は止まります。人間も動いてはいけないのです。
 しかしそのころは私はもう、警報には慣れっこになっていました。「下駄をつくる時間が惜しい」と、止まった電車から飛び降り、駆け足で1.4キロも走って家野町にある中村君の家をめざしました。中村君の家に走りついたら、空襲警報は解除になりました。しかし、まだ「警戒警報」は発令中でしたから、本当は防空壕の中にじっとしていなければいけなかったのです。
 しかし、私たちは「もう空襲警報は解除されたから、いいじゃないか。時間もないから下駄作りをはじめよう」と、防空壕を出ました。家の縁先に陣取って、私が材木を押さえ、中村君がすぐそばでノコギリを引いていました。運命の瞬間が訪れたのはその時でした。
 
 原爆のことを「ピカドン」といいすす。広島の人たちは気が短いのでしょうか「ピカ」としかいいません。しかし私には、「ピカ」と「ドン」が重なったように感じられました。
 あたり一面「真っ黄色」で、頭の頂天を金槌の先のとがった方で「キーン」とと殴られた感じでした。そして、身体は「フカッ」と浮き上がったように思えました。おそらく爆風で飛ばされいているのです。そして、そのまま気絶してしまっていました。だから、時間の経過はわかりませんでした。
 「助けてくれー」「助けてくれー」という、うめき声や叫び声が私の耳に達して、私はハッと我にかえりました。その声は、崩れた屋根の下から聞こえてくる。 私はその時、のどがカラカラに渇き、頭には熱いタオルをグルグル巻きにさせられたような感覚でした。それでも「その声の主は中村だ!」と気づきました。必死に「中村、しっかりしろよ!」と自分では叫んだつもりでしたが、声になっていたかどうか、わかりません…。彼の上にのかっている崩れた屋根に手をかけてみましたが、一人の力ではどうにもなりません。
 その時、爆心地の方からは人々がゾロゾロ歩いてきました。私は、「友達が屋根の下敷きになっています。屋根が重くて一人では動かせません。力をかしてください」と、必死に頼みました。しかし、みんな放心したように通り過ぎていくだけでした。まるで幽霊みたいに見えました。
 私は言いようのない悲しみに、涙をしゃくり上げながら、瓦を一枚一枚はがしては、動く見込みのない屋根を一人で持ち上げようと、くり返していたのです。
 やっと家の裏手から、中村君のお母さんがはい出してこられました。「太郎、しっかりしなさい!」。お母さんは中村君を励まして、私と2人で力を振り絞り屋根をかかえてみました。何回くり返しても、中村君はまだ動くことができません。
 どれだけ時がたってからでしょうか。有り難いことにどこの誰だか今でもわからないのですが、2人の青年が立ち止まって力を貸してくれました。おかげで、4人でようやく屋根を持ち上げ、中村君を引っ張り出すことができたのです。
 お母さんは中村君の肩をしっかり抱いて「助かって良かった、よかった」と泣いておられました。私も中村君の手をしっかり握りしめ、「良かったね」といって泣いていました。
 私と中村君は、中村君のお母さんから、大きな防空壕に移され、寝かされました。やがて中村君のお父さんがタンカで運ばれてかえってきました。中村君の家のすぐ隣には、三菱兵器製作所(現長崎大学教育学部付近)があり魚雷をつくっていましたが、お父さんはそこの係長でした。
 入ってくるなり、「水、水を飲ませろ!」と大きな声で叫んでおられました。その時の声は、いつものような元気な声でしたが、やがて「梅干しが食べたい、梅干しを食わせろ!」と言ったまま亡くなってしまいました。おそらく、力が抜けていくような自分の命を、梅干しの酸っぱさで引き締めたかったにちがいなかったのでしょう。
 そして、その日の夜半、親友の中村君も「かあちゃん、かあちゃん」と泣きながら、消え入るように死んでいってしまいました。今思えば、「火傷の大きさのちがい」が、私と親友の生死を分けたのでした(被爆したとき、私は半袖シャツとズボンでしたが、中村君はパンツ一枚でした)。
 自分の子どもを亡くしたばかりのお母さんは、「(私を)そのままにしておくと、自分の息子のように死んでしまう」と判断されました。死んだばかりのお父さんの弟さん(中村君のおじさん)は五体満足だったので、私を背負って、折り返し運転で被爆者を諌早や大村の病院に運んでくれる列車まで運んでいってくださったのです。
 
 私は諌早に運ばれましたが、「病院は満員」といわれ、小学校に収容されました。原爆は人間を生きたまま腐らせていきます。婦人会の奥さんたちが手当をしてくれた包帯の間から、傷にわいたウジ虫が、ポロポロ床にこぼれ落ちていきました。
 誰が生きているか死んでいるかもわかりませんでした。自分の死をすぐそばに感じながら、死体とともに幾夜過ごしたことでしょう。
 1カ月ばかりたって諌早海軍病院の重症患者が死にたえ、空っぽになりました。小中学校のムシロの上で生き残ったものが、海軍病院にタンカで移送されました。
 この病院で注射を打ってもらったとき、「これで助かるかも知れない」と、初めて思いました。しかし、病院も小学校も結果は同じでした。激しい下痢がつづきました。髪は抜けていきました。さらに高熱におかされた私は、ウワごとを言っていたそうです。…こうした状態になると、みんな必ず命を奪われていきました。
 私の左手は火傷がひどく深く、天井からヒモを垂らしてそれにつるしたままでした。降ろせば出血がひどかったからです。高熱もつづきました。約二週間リンゲル(食塩水)をうち続けました。ウワごとを言いかけては、長崎から看病に来ていた母親にゆり起こされました。「眠るとウワごとを言う人は死んでいく。ウワごとを言わせまい。眠らせまい…」、こうしたむなしい努力を母親はつづけていたのです。私が生き延びたとき担当の軍医さんが、「奇跡だ」とつぶやいたほど私の様態は悪かったそうです。
 それでも私は生き続けることができました。病院が米軍に接収されることになり、直りきっていないのに退院させられました。私の病室には最初は50人もいたのに、生き残った人はわずか7人でした。

それから56年。原爆の痛手はたえずつきまとっています。その時限りでないのが原爆の恐さなのです。
 16歳で被爆して、20歳代の時は白血球が1万5千まで上がるときがよくありました。そんな時は身体がとてもだるいのです。原爆症=白血病でもあるんです(6000〜7000の白血球が普通なのですが、増えたり減ったりするのが原爆症なのです)。
 私は結婚もしました。子どもは1人だったけれども生まれました。私たち夫婦は2人とも被爆者だから、生まれる間際まで「丈夫に育つだろうか。奇形児ではなかろうか」と、随分気をもみました。
 息子は2カ月も早く生まれた未熟児でした。生まれてから高熱がつづき、お乳を飲む力がなくて、妻が絞り出したお乳を、鼻からゴム管で流し込むありさまでした。瞬間的な仮死状態に3回ほどなりました。それでも、私たちの息子よく頑張って、大きくなってくれました。
 その息子が東京で暮らしていますが、いま44歳です。結婚して2人の子どもに恵まれ、もう高校生と中学生です。私たち夫婦もいまでは孫を連れて、原水爆禁止世界大会に参加するようになりました。
 私どもはこの世に核兵器がある限り、親、子、孫、3代にわたって核兵器廃絶の運動をつづけるつもりです。

 左の腕に焼き付いた、このケロイドを見るたびに私はいつも思い出します。火に追われ、水を求めて幽霊のようにさまよった人たち…。膝から下の皮がむけて、その皮をゾウリのようにしてピタピタといわせて歩いていた人たち…。買ってもらったばかりの下駄を爆風に飛ばされて、「下駄がないよう」と泣きながら息を引き取った小さな男の子。飛んできた木の破片が額に突き刺さり、それでもお母さんのオッパイをくわえながら死んでいった、生まれて数ヶ月の女の子。そして、焼け跡から集めてきた木ぎれで最後の我が子の死体を焼く、涙も枯れ果てたお父さんやお母さんたちの姿…。
 こんなに苦しみ、悲しみを、戦争は、核兵器は私たちにもたらしたのです。

 もちろん、わが日本は20年にわたってアジアの人々を苦しめた罪深い民族でした。だから極東裁判で東条英機以下、戦争阪大人として処刑されたのです。だから、もう二度と侵略はしない、戦争はしないと、全世界に向けて誓ったのです。
 侵略戦争を引き起こし、それをつづけた加害者としての責任はきわめて重い。このことを忘れてはならないと思います。
 しかし、無条件降伏しか道がなかった。負けるということは分かり切っていた日本に、人体実験といって決して言いすぎでない、開発したばかりの原爆を使ったアメリカの当事者たち、政治家や軍人たちを私たち被爆日本国民は許すことはできません。
 これから、核兵器をつくり、使おうとするものは人間ではありません。湾岸戦争の時、アメリカのチェィニー国防長官は、イラクのフセイン大統領に向かい「今度の戦争で、君達がもっている毒ガスや核兵器を使うならば、われわれはそれに倍する核兵器でこたえるゾ」と脅しました。私たちは、「とんでもないことだ、ヒロシマ・ナガサキの過ちをくり返させてなるものか」と、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」、核兵器廃絶の署名に力を注いできました。 もう11年になりますが、この署名には1億2千万人の日本国民の過半数、六千万人以上人々がすでにサインしてくれています。夏の原水爆禁止世界大会に参加する海外代表の手によって全世界に広がり、百数十カ国で1億人以上が署名しています。
 この力が、平和を求め核兵器を根こそぎなくそうという世界の世論が、アメリカとイラクに核兵器を使う機会を失わせたのです。核兵器をもっている国の政治家や軍人たちの手を、核兵器廃絶を願う全世界の世論と署名運動の力が押さえ込んだのです。私たちの確信はここにあるのです。
 青い美しい私たちの地球を核兵器の被害から守りぬく運動に不動の確信をもつことです。核兵器は人間が作ったもの。だから、人間の手で必ずなくすことができるはずです。
 「ヒロシマ・ナガサキをくり返させるな!」この正義の声を、世界中に満たしていきましょう。
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