被爆体験を語る
「戦争する国」への道は許さない

 川口龍也 被爆時年齢9歳
    元日本共産党長崎県委員会常任委員、元県庁職員
一瞬の閃光と爆音に伏せる   

 1945年8月9日、午前11時まえごろ、当時9歳(西坂国民学校3年生)の私は、仲良し友達4〜5人と一緒に、爆心地から約2,1キロメートル離れた、長崎駅の前方にある通称、五社山(ごしゃさん・標高約180メートル)の林のなかにあった五社神社の石つくりの祠(ほこら)付近で、半ズボンに上半身は裸で、セミをとっている最中に、被爆しました。

 一瞬、稲妻のような閃光が走り、爆音がとどろきました。米軍の戦闘機から機銃掃射されたと思い、とっさに学校で訓練していたとおり、「伏せ」と叫び、目と耳を両手でふさぎ、地面に伏せました。機関銃で殺されると思って、恐怖のあまり、心のなかで、念仏を唱えました。暫くして、起き上がり周りを見渡すと、石の祠を取り囲んでいた、石柱がバタバタと爆風によって倒れていました。
 幸い、山の林の中にいたために、直射を浴びなかったので、誰も怪我も火傷もしませんでした。

 何が起きたのか、わかりませんでしたので、林から飛び出し、下の方にあった広場から、長崎駅や大黒町あたりを見下ろすと、真っ黒い雲のようなものに覆われ、何も見えませんでした。ただ、「ゴーッ」という、人々が泣き叫ぶ阿鼻叫喚のようななんとも不気味で異様な音だけが下のほうから聞こえてきました。さながら地底の地獄から湧きあがってくように感じました。

 その小さな広場には、友人の小屋があり、私たちの姿をみた友人のお母さんは「あんたたち、なんばしとっとね。はよう、家にかえらんば」と叱られ、みんな一目散に、急な山道、畑の小道を駆け下り、それぞれの自宅に向いました。

 家の近くまで来ると、左下肢をもぎとられ、血をながしながら這うようにして上がってくる髪をふりみだした婦人、着物がボロボロに焦げ、真っ黒になった人々が、小さな道を群れをなして上がってくるのに出会いました。みんな、言いようのない異様な姿でした。


従兄弟は家の下敷きに、友達は真っ黒になり死亡

 私の家は西坂国民学校のすぐ上にありました。(爆心地から1,8キロメートル)家族は5人家族でした。父(当時34歳)は、徴用工として召集され、日本帝国海軍の軍属として、千島列島、青森県などで砲台をつくったりしていました。被爆当時は、海軍の鎮守府があった佐世保市に近い小佐々にいました。母(当時32歳)は、父がいないので、私と妹2人(当時7歳と5歳)の子どもを育てるために働いていました。

 9日は、近所の兵隊さんの遺骨が帰ってくるというので、総出で、清掃をしていました。清掃が終わったので、母と妹2人は自宅に戻り、玄関に入ったとたん、ピカーと光って、被爆しました。家中家財道具が飛び散りましたが、幸い、家の中にいましたので、かすり傷ひとつしませんでした。

 私の家のすぐ下には、叔父の平屋建ての家がありました。そこの納戸で、従兄弟達3人が並んで、寝ていましたが、納戸が倒れ、梁の下敷きになって、真ん中に寝ていた従兄弟(当時3歳)が即死しました。両側に寝ていた2人は、梁の下敷きにならず、奇跡的に助かりました。叔父は「てるちゃーん 手を貸してー」と母の名を呼びました。母も倒壊した屋根瓦の下になっている3人の従兄弟達を助けるために、必死で屋根瓦などを取り除きましたが、1人の従兄弟はすでに亡くなっていました。

 また、隣家の幼友達(当時12歳)は、母親のおつかいで、銭座町(1,5キロメートル)まで「タオル」の配給をもらうために、店の前に並んでいる時に、被爆しました。直射を浴び、一糸まとわぬ真っ黒の体になって「かあちゃん 痛いよう 痛いよう」と泣き叫びながら家までようやくたどり着きました。そして、近くの横穴の防空壕のなかで、「痛い、痛い」と泣きながら、4日後の13日に亡くなりました。


西坂国民学校、自宅、近所の家々が延焼

 昼ごろから木造2階建ての西坂国民学校が燃え、叔父や私の家、近所の家々が燃えはじめました。着るものを風呂敷に包み、着のみ着のままで、裏山の竹林の中に逃げました。逃げる途中、畑のそばの溝のなかに、風呂敷を隠して行きましたが、後でとりに行くと熱のために燃えてしまっていました。下にある町のほうを見ると八千代町にある大きなガスタンクがものすごい勢いで、燃えていました。また、小学校の道端には、馬が横倒しになって死んでいました。

 自宅が燃えてしまったので、寝るところがなく、近所の顔に火傷を負った兄ちゃんたちと一緒に自宅の裏にある麦畑の横穴の防空壕にいました。兄ちゃんの火傷した顔からは、しるが流れ出し、とても苦しんでいました。防空壕のなかは、地下水が天井から流れて水浸しになるので、長くはおれませんでした。

大橋の川辺に無数の真っ黒な死体

 母は思い切って、父のいる小佐々に行くことを決意し、13日の朝から母子4人で防空壕を出ました。井樋の口交番(現在の銭座町交番)前の救護所で、大きな桶に臭いがひどい炊き出しのおにぎりをもらい、飛行機の爆音におびえ、溝に身をひそめながら、松山の爆心地を通り、大橋に来ました。大橋の川辺には、無数の真っ黒になった死体が横たわっていました。苦しみながら最後の水を求めて、ここで息絶えたのでしょう。

いまでもこのときの光景は、脳裏から離れません。62年前とはすっかり町の風景はかわり、当時の面影はありませんが、この場所を通るたびに、あの悲惨な地獄絵が鮮明によみがえってきます。大橋を抜け列車は道の尾駅までしか来ませんでしたので、道の尾駅まで歩きました。


諏訪神社の長坂で授業開始

 終戦は小佐々の海岸で知りました。子ども心にもホットしました。父と親子5人で長崎市に戻ってきましたが、親戚の家に間借りしながら転々と替わりました。小学3年の2学期の授業は、お諏訪の丸馬塲公園や長坂の一番上の階段で一クラスで授業が再開されました。暫くして、上町の西勝寺を借りて二部授業になりました。終戦直後は依然として食べるものも着るものも十分ではなく、本当に苦しい時期でしたが、みんな元気に仲良く、希望に燃えて勉学に励んでいました。


一発の原爆が長崎市を壊滅 いまも被爆者の苦しみが

 たった一発の原爆で長崎市は一瞬のうちに壊滅し、多くの死傷者が出ました。そのうえ、いまなお、人類が経験したことのない、放射線障害で生き残った者の多くの命を奪いつづけ、多くの人々が苦しんでいます。

 私は、定期検診の結果、「多発性骨髄腫」の精密検査を行なうように言われました。その時、私はとっさに「来るべきものが、いよいよ来たか。これで人生も終わりだ」と覚悟しました。結果的には再度の精密検査では、幸いにも「特に、異常はみられませんでした」。私は、いつかは「がん」になるのでは、ないかと思いながら生きてきました。

 戦後、生まれた私の弟は、わずか1才4ヶ月で肝臓で死亡しました。腹がパンパンに張り裂けんばかりに膨脹していました。当時は医療技術は現在ほど充実していませんでしたので、分かりませんでしたが、私は原爆の影響があったのではないかと思われてなりません。
 多くの被爆者は、自分自身の健康不安のみならず子、孫の将来についても心配と不安をかかえながら生きています。

一日もはやく核兵器をなくし、戦争のない平和な世界を

 かって、日本軍国主義によって開始された侵略戦争の犠牲になられた多くの人々に心からお詫びします。戦争の犠牲になるのは、いつも一般市民であり国民です。日本は世界で最初にして唯一、アメリカの核攻撃によって、非人道的で人類とは絶対に共存できない核兵器による地獄を体験しました。そして、戦前の痛苦の教訓のなかから、日本は戦争は二度としないという世界にも誇れる憲法をつくりました。「一日もはやい核兵器廃絶を」との被爆者のこえは、全世界の大きな流れになってきています。しかし、日本政府は、この流れに逆らって憲法9条を改悪しようとしており、「戦争する国」への道を突進しています。

 私は、幸いにも、これまで生き残ってきた被爆者の一人として、亡くなった幼い従兄弟やもだえ苦しみながら死んでいった幼い友達に代わって、「戦争する国」への道を許さず、憲法9条を守り抜き、世界の平和と核兵器の廃絶が実現するまで微力をつくしたいと思っています。


若い人たちの真剣な態度に感動

 本日は、全国各地から若いみなさんが大勢長崎にこられ、私のつたない話を熱心にお聞きいただき、本当にありがとうございました。

 「これまで、どのような気持ちで生きてきましたか」等という本質的なご質問もあり、真剣な態度に感動し力つよく感じました。再び被爆者をつくらないために若いみさんがお元気で運動をすすめていかれることを心から期待します。