長崎原爆遺構を歩く  (下)  上へ
     長崎県原水協常任理事 内田武志

特設救護病院跡(当時新興善国民学校・長崎市立図書館内)
 被爆直後、特設救護病院として使用された新興善小学校校舎は現在の市立図書館の場所にありました。学校統廃合で取り壊されましたが、市民の強い要望で一部が残され、救護所が再現されています。

 被爆直後から救護所となり、十日午後には針尾海兵団救護隊二百四十九人がきて、ここを宿舎にしました。

 日を追って、各地から医師が派遣され終戦の翌日には「新興善救護病院」となりましたが、ここが救護病院として使われたのは十月までです。この間に数千人の被爆者をここに収容し治療したといわれますが実数は不明のままです。

 被爆直後の救護所の様子は悲惨なものでした。「教室にも廊下にもいたるところにムシロが敷かれ多くの被爆者が寝かされていました。

 息もたえだえの人たち、ある者はうなり、ある者は悲痛な表情で泣き叫ぶ、全身焼けただれ半裸のまま這いまわっている女性、頭髪がやけこげ背中にうじがうごめいている男性、そんな人たちであふれかえり」「次々に亡くなり、前の女子商業の焼け跡で火葬したが、その火は九月下旬頃までたえることがなかった」「消毒薬さえなく港から海水を汲んできて煮沸して使った」など、救護に携わった看護師や医師の体験が廊下に展示されています。

渕国民学校(現渕中学校)
 渕中学校の前身、渕国民学校は一九四〇年開校の高等科の国民学校です。鉄筋コンクリート三階建ての本部校舎の他、木造校舎や体育館など設備も整っていました。

しかし、一九四五年三月には「決戦教育措置要綱」(国民学校初等科を除きすべての学校の授業を原則停止、全学徒を決戦体制に動員する)が閣議決定され、高等科国民学校の教育は完全に停止し、教師も生徒も全員が三菱造船や、三菱兵器などの軍需工場や駅員に動員され働いていました。

 動員先で原爆にあい犠牲になった生徒は、動員学徒戦没者名簿に一三三人とあります。

 爆心地から一・二`にあるこの学校は、原爆投下によって、本館校舎は鉄筋コンクリートを残し全焼、木造校舎は全倒壊後、全焼、体育館は外壁と骨組みだけになりました。被爆時、校舎の一部は三菱造船・電機の工場になっており、作業中の教職員二人、工員十五人が焼死しています。

 現在、正門のすぐ右脇に、原爆の熱線で一部炭化した木材も見える旧体育館の遺壁が展示されています(写真)。破損した当時の門柱もあります。

 近くにある稲佐小学校では、三十六学級千名を超える生徒がいたが、戦後九月の登校者は約百二十人だったそうです。鉄筋校舎は倒壊を免れ、使用不能であった城山小・銭座小・渕小の生徒もここで授業を受けました。

穴弘法奥の院
 穴弘法寺に登る途中、経の峰の墓地は「原爆死」「昭和二十年八月九日死亡」と刻まれた墓碑が目につきます。

 一家で六名が同日、犠牲になったことを示す墓誌もあります。いまも爆風で傾いたままの石塔、破壊されたまま、修復されていないお墓も残されています。

 穴弘法は、非常の際、長崎医科大の救護所に指定されていました。生き残った大学関係者や市民が登ってきましたが多くは、ここで亡くなりました。戦後直ぐに建立された原爆殉難者供養地蔵尊があります。

 奥の院(霊泉寺)は湧水が有名で、多くの被爆者が水を求めて登ってきました。

 また、浦上から金比羅山を越え旧市街方向に避難する通り道でしたが、この地で息絶えた人も少なくありません。金比羅山の高射砲陣地跡に立つ慰霊碑は、この場所でみた原爆直後の姿を「その惨状阿修羅地獄といわんか」と刻んでいます。

 穴弘法には錫杖を持つ手を熱で塞がれた像、下半身を失った像、頭部のない像、割れた頭部など、約五百もの被爆地蔵尊があります(写真)。もし生身の人間であったらと息をのみます。

 寺域に稲荷社もあり、爆風で倒れた鳥居の足が石段に立てかけたように置かれています。また、ずれていまにも落ちそうな巨岩を見ることもできます。

 八月九日の平和祈念式典での献水の水は、霊泉寺からも運ばれます。

三菱兵器のトンネル工場跡
 日本軍の魚雷製作の拠点であった「三菱兵器製作所」は、戦争末期に航空機用九一式魚雷を作っていた工場を疎開させるために、トンネル工場をつくりました。(写真)

高さ三b、幅四・五b、長さ約三百bの穴が六本が掘られ、途中数カ所でつながっていました。

 操業を始めていた一、二号トンネルでは三菱の工員とともに、女子挺身隊、勤労学徒が昼夜交代の作業に従事していました。四、五号トンネルは強制連行された朝鮮人労務者が掘削中でした。

 原爆投下によって、爆心から二・三`のこの場所でもトンネル内外で多数の作業員が爆風・熱線・放射線を浴び被爆しました。被害状況は今に至るも、正確には明らかではありません。傷を負わなかった人たちは、ただちに三菱兵器大橋工場などにも派遣され救護にあたりました。

 トンネルには、近くで被爆した人々も続々と逃げ込んできて、身動きする隙間もなく、まさに地獄のありさまだったそうです。

 トンネル東口は昨年道路工事の現場から姿を現しました。塞がれた入り口や鉄柵がはまって施錠されている入り口もあります。

 現在、現場は工事中でトンネル内は自由には見学できない状況ですが、貴重な遺構であり市民の保存の要求も強く市当局は工事の進捗にあわせ危険防止もして二年後には一般公開するとしています。

長崎刑務所浦上支所
 平和祈念像が建ち、平和の泉や多くのモニュメントもある平和公園には多くの人々が訪れます。この場所は、かつては長崎刑務所浦上支所のあった場所です。爆心地にもっとも近い公共の建物でした。

 刑務所の木造庁舎は全壊全焼しました。周囲にめぐらされた高さ四b、厚さ二十五aもある鉄筋コンクリートの塀も倒壊しました。現在、この塀の土台部分が公園の東側と西側に残っています。

 案内板によれば、「原爆の炸裂によって刑務所内にいた職員十八人、官舎居住者三十五人受刑者及び刑事被告人百八十一人(内、中国人三十二人、朝鮮人十三人)の計百三十四人全員が即死した」とあります。ここで爆死した中国人は大陸から連行され、炭坑で強制労働に従事させられていた人たちです。今年、この公園内に、この中国人被爆者三十二人の名前が刻まれた、慰霊碑が市民有志によって建立されています。

 公園地下駐車場工事の折、地中から赤レンガの刑務支所の基盤や処刑場跡の地下部分がでてきました。長崎には原爆遺構が少なく貴重な存在なので保存を求める声も上がりましたが解体撤去されてしまいました。かろうじて基盤部分が公園内に復元展示されています。

 長崎原爆による中国人被爆者はおよそ六百五十人、朝鮮人被爆者については諸説がありますが、長崎市の調査では一万二千〜一万三千人とされています。