被爆遺跡と被爆碑
被爆中心碑
 1945年8月9日午前11時2分。この碑の真上約500bのところで、原子爆弾が炸裂しました。爆心地付近は、人間も蒸発するように消えてしまいました。
浦上天主堂
 爆心地から東北約500bにあった浦上天主堂。炸裂と同時に、堂壁、鐘楼の一部を除き、倒壊し焼失しました。
 天使の像も全身に熱線をあび、爆風で損傷を受けました。
 新天主堂の一角に、当時を偲ばせる遺跡が置かれてあります。
長崎刑務所浦上支所外壁跡
 平和記念像で有名な「平和公園」。爆心地からか北に100bです。当時は、刑務所がありました。爆心地にもっとも誓い建物で、職員、収容者、職員家族は全滅しました。
 当日の午後調査に訪れた前刑務所長の高橋さんはその様を見て、「原爆の威力と人類に及ぼす戦争の残酷さを一生忘れえない」と書いています。
片足鳥居
 坂本町の山王神社の第二鳥居が片足鳥居です。爆風が鳥居の片足と上部の天地石材をこわし、その時、上部に残されたカサ石は風圧でねじ曲げられました。
 こうして微妙なバランスで、今の原爆の「生き証人」として立ちつづけています。
被爆大楠
 山王神社の境内にある大楠は樹齢約500年。8.2メートルと6メートルほどの大きさで樹皮は苔むしています。
  強烈な爆風、熱線、それに引き続く火災で2本の楠も裸同然となり、幹を残すだけでした。
  しかし、その年の10月頃から新芽が見られるようになり次第に再生し、現在の姿となりました。
長崎大学医学部門柱
 すさまじい原爆の爆風で、およそ10度傾いた医学部正門柱(当時)。被爆状況も今も伝え、その悲惨さを訴えています。
嘉代子桜
 当時、県立高女学徒国隊員として、城山国民学校の三菱兵器製作所で働いていた嘉代子(かよこ)さんの遺体8月30日にようやく見つかりました。
 その後、お母さんは娘を含めた多くの女学生の慰霊を込めて、城山小学校の校庭に桜を植えました。
少年平和像
 城山小学校の正門中庭に立つ等身大の少年像。全てを失ったこの学校の児童たちが、平和を希求してけなげに立ち上がろうとする姿を形取ったものです。
 1951年長崎市出身の彫刻家富永良雄が作成。8月8日に除幕式が行われました。 
原爆殉難者の碑
 城山小学校校庭にあります。最初は1948年にこの学校が復元したあとに、木製の碑として立てられました。その後1966年に石碑となりました。
 この碑文には「児童1400人が原爆により命を失った」ことが記されています。