被爆56周年長崎から
被爆56周年を迎えた、長崎の被爆者運動などを「しんぶん赤旗」が三回にわたり連載しました。その記事を紹介します。
@被爆地域の拡大・是正は急務
 長崎市南部にある深堀町(旧深堀村)は、爆心地から南へ約十`。東側は当初からの被爆地域(旧市内)で、西側は未指定地域の香焼町です。
 深堀四丁目に住む江尻美枝子さんは、十一歳の時この地の高台で被爆、何の障壁もない長崎港の向こうに黄色い閃光(せんこう)を目撃し、熱風を受けました。
 「ガラスが粉々に割れてご飯にまで突き刺さり、位牌も飛び散りました。全身大やけどで、やがて髪が抜けました。病院にいっても『病名が書けない』といわれてつらかったですね。でも手帳はありません」とうつむきながら話しました。
 この七月九日、同町に住む〃手帳のない被爆者〃ら十数人は長崎市役所を訪れ、「爆心地から十二`の同心円に入っている未指定地域を早く被爆地域にしてもらえるよう国に働きかけて」と、八百五十人分の署名を添えて陳情しました。
 江尻さんをはじめ、参加した全員が、当時の生々しい記憶と、その後の心身の痛みを語り、「同じ原爆を受けた被爆者なのに、手帳をもらえないまま年をとっています。もう後に引けないんです」と訴えました。
 署名の後押しをしてきた峰松巳さんは当時十九歳、福岡の航空隊から故郷の深堀村に帰ったのは被爆から二十日後のこと。そこで長崎の惨状を目撃しました。深堀も北に面した所は同じ状況でした。
 峰さんは地域の町内会長、「被爆した近所の人たちはみんな兄弟・姉妹と同じです。署名を集めた十八人の被爆者は、『大臣の袖を引っ張ってでも』という気持で、病弱の身を押して一軒一軒訴え歩いたんです。今度こそ実をむすばせたい」との思いを語ります。
 「不安な毎日を必死で生きてきた五十六年間を取り戻したい」と話す狩峰重利さんも同じ思いをもつ町内会長さん。同市茂木町(爆心地から八〜九`=旧茂木町)を被爆地域にとがんばっています。「私たちも爆風も熱風も直接体験しています。厚労省は(一日の)検討会の報告を科学的根拠と認め、未指定地域を被爆地域にすべきです。簡単に放射線被曝はないと片付けてもらいたくありません」と話しました。
 昨年の原爆の日に森喜朗首相(当時)は、「いつまでも一つの考えにこだわるのでなく、苦しみのある方にしっかり政治が手をさしのべることが大事」と明言しました。それから一年、厚生労働省の検討会も未指定地域の住民を調査し、「原爆落下に起因する不安が心の傷となり、今日なお精神上の健康に悪影響を与えている可能性が高く、身体的健康度の悪化につながっている可能性が高い」と最終報告で指摘しました。
 被爆から五十六年、未指定地域に住む対象住民は、当初の六万七千人から八千人余に減少しています。高齢化がすすみ、「生きているうちに被爆者として認めてほしい」との声は、すべての被爆者の叫びです。被爆県民みんなが国の決断を待ち望んでいます。

A被爆の語り部として 「二つの空白」 生きているうちに伝えたい
 長崎の被爆者、奥村アヤ子さん(64)は、被爆体験を語り始めて、十年を迎えました。
 奥村さんの人生には、二つの「空白」があります。一つは、被爆の体験を語ることのなかった四十六年間です。「話せなかったんですよ。原爆について知りたくもない。被爆したことを忘れたい一心でした」といいます。
 五十六年前の八月九日、奥村さんは城山国民学校三年生。両親ときょうだい九人家族で、自宅は爆心地から五百メートルのところにありました。
 「あの朝まで、普通に変わることなく家族全員元気だったのに、数時間後には私と弟だけになり、いまも悲しみを背負ってきているんです」
 自宅から少し離れた柿の木の下にいて助かったアヤ子さん。家々が崩れ、燃え、人や馬が倒れている中を、驚いてとにかく自宅へと急ぎました。大やけどの弟(当時四歳)、だれかもわからない姿の妹に会えただけで、いくら捜しても母や姉はいません。
 妹は「水、水」と求め、その日のうちに亡くなりました。しかし、いつ死んだのか記憶がありません。いくら待っても、父も兄も帰ってきません。翌日から、近所に住む伯母一家と防空壕での生活。伯母は六人家族全員がそろっているのに、アヤ子さんは、弟と二人だけ。
 一週間ほどして、伯母が亡くなり、遠くの親戚に引き取られることになりました。 「あまりの悲しみとショックのためでしょうか、伯母の家での生活をまったく覚えていません」 被爆直後から失った記憶、この「空白」を埋めたのが、四十六年たった一九九一年七月でした。
 姉の友人に会い、姉の最期をはじめ家族の悲惨な死に様を知りました。
 姉は真っ黒に焼けこげた体で、アヤ子さんがいた防空壕の前まで自宅の方からたどりついて、そこで亡くなったこと。あれほど捜した母は、家の下敷きになり、しばらく生き埋めになり、亡くなったこと…。
 奥村さんは、家族それぞれが亡くなったであろう場所の土を遺骨代わりに持ち帰り、新しい下着を添えて、墓に眠らせました。
 それから十年。
 「原爆について知れば知るほど、腹が立つんです」と語る奥村さん。
 「原爆を投下しないでも日本の敗戦は決定的だったのに、米国は人体実験のために原爆を使用したこと、日本が降伏を引きのばさなければ、沖縄戦も広島、長崎も防げたんです」
 奥村さんはいいます。
 「原爆で一瞬にして亡くなった人に代わって、被爆の体験を、私が生きているうちに伝えたい。二度と悲惨な地獄を味わわせたくない。核兵器はなくなってほしいんです」

B若い世代/「高校生一万人署名」
 「核兵器をなくすために、自分たちも何かしなければ」と長崎の高校生たちが、今年二月から自主的に始めた核兵器廃絶を求める署名がこの夏、目標の一万人分を突破しました。いまでは一万五千人分を超えています。
 「核兵器の廃絶と平和な世界の実現を求めます」と書かれた署名。英文と日本文が併記されています。あて先は国連のアナン事務総長|。高校生が自分たちで作成したこの署名は、長崎の市民団体が八月に国連欧州本部に派遣する「高校生平和大使」に託そうというものです。
 昨年「大使」を務めた高校生の呼びかけで今年一月末に実行委が発足し、二月下旬からさっそくメンバーの通う高校の卒業式での呼びかけや街頭活動が始まりました。
 最初は「一万人ぐらいすぐ集まるはず」との声もありましたが、実際やってみると意外に大変だと気づきました。公立校の卒業式では、ホームルームなどでの呼びかけが許可されないところが多かったのです。
 それでもメンバーは、校門前はもちろん、長崎、佐世保、五島など各地で街頭に立ち、メールや文通友達のつてもいかして広げました。次第に協力者も増え、初めは十数人だった実行委員も五十人を超えました。
 そして、七月十一日。実行委は約一万二千の署名が集まったと満面の笑みで発表しました。メンバーの一人、長崎西高二年の中村麻美さんにはこんな体験も。四月のある日、乗っていたバスに就学旅行中の高校生が大勢乗車。中村さんは思い切ってその場で署名を呼びかけました。相手の高校生は、「先生
に相談してみては」と応じ、先生からもOKが。そして、宿泊先のホテルにおもむき、食事の席で、中村さんは真剣に署名を呼びかけました。
 七月。その高校からこんな趣旨の手紙がきました。「文化祭の発表で、長崎の高校生の活動を紹介したい…」。胸がいっぱいになりました。
 「いきづまったときもあったけど、やればできるんだなー、と思った」と中村さん。他の高校生たちも「これで終わりにしたくない」「来年はまた別のことをしたい」と意欲的です。
 高校生たちの活動を見守ってきた平野伸人・平和大集会実行委員会事務局長は、「高校生は目的を持ったら、すごい力を発揮する。やり方もしがらみがないというか、とてもさわやかです。それが私たち大人にも感動を与えてくれます」とうれしそうに話します。
 長崎平和推進協会の出口学事務局次長は「被爆者の高齢化がすすむなか、一人でも多くの人に自分の体験を伝えたいと使命感に燃えている被爆者の方々もたくさんいます。これからの時代を担う若い人たちも、この署名などを通じて平和にたいするとりくみを広げていってほしい」と期待します。