被爆56周年
長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典
長 崎 平 和 宣 言

 新しい世紀を迎えた今、原爆で亡くなられた方々と、国内外のすべての戦争犠牲者のごめい福を心からお祈りし、被爆地長崎から平和への願いを世界に訴えます。

 私たち長崎市民は、被爆地の声として、21世紀を核兵器のない時代にしようと訴え続けてきました。しかし地球上には今なお3万発もの核弾頭が存在し、核兵器の脅威は宇宙にまで広がろうとしています。56年前の原爆でさえ、たった一発で、一瞬にして、この地を地獄に変えました。

 20世紀は、人類にとって科学技術と人権思想の大いなる進歩の世紀でした。その一方で、核兵器という人類の絶滅兵器を生み出しました。核保有国は冷戦体制が終わったあとも核兵器を手放さず、しかも最近、超核大国のなかには、核軍縮の国際的約束ごとを一方的に破棄しようとする態度が見られます。これは核兵器をなくそうとする努力を無にしようとするものであり、私たちは強く反対します。

 昨年5月、NPT(核不拡散条約)再検討会議で合意された「核兵器廃絶に向けた核兵器国による明確な約束」は単に言葉だけの約束であってはならないはずです。私たちは、その実現をせまるため、世界の人々と共に声をあげ続けます。

 日本政府が被爆国として、核兵器禁止条約の締結に向けた国際会議の開催を提唱し、核兵器廃絶のため積極的役割を果たすことを求めます。そして、憲法の平和理念を守り、過去の侵略の歴史を直視することによって近隣諸国との信頼関係を築き、北東アジア非核兵器地帯の実現に努力して「核の傘」から脱却すべきです。そのためにも、「非核三原則」の法制化が必要です。

 また、国内および海外の被爆者に対する援護のより一層の充実を強く求めます。56年が経過した今も、高齢化が進む被爆者の心とからだの不安や苦しみは、薄れるどころか、年を追うごとに増大しています。さらに、長崎市とその周辺の被爆未指定地域にも、同じように苦しんでいる人がいることを忘れないでください。

 今、長崎では、若い人たちが平和を求めてみずから企画し、さまざまな活動に取り組み始めています。高校生の間では、核兵器廃絶を求める1万人署名の運動が繰り広げられています。このように主体的に考え、行動する若者が育っていることを私たちは誇りに思います。若い人たちが、原爆、平和、人権について世代をこえて話し合い、学ぶことができるよう、長崎市は、「ナガサキ平和学習プログラム」を創設し、平和のために積極的に行動する人材の育成につとめます。

 昨年11月、日本で初めて自治体とNGOが連携して「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」が開かれました。その中で、地球市民の活動は世界を動かすことができると実感しました。私たちは、世界の草の根運動によって対人地雷全面禁止条約が結ばれたことを思い起こし、世界の都市やNGOとの連帯を強め、核兵器廃絶運動の先頭に立って進みます。

 長崎は、最後の被爆地でなければなりません。ここに、私たち長崎市民は、21世紀を戦争や核兵器のない平和な世紀とするため、力の限り努力していくことを宣言します。

2001年(平成13年)8月9日 長崎市長  伊藤 一長
平 和 へ の 誓 い

 私は12才の時、母と買出し行く途中、爆心地から2キロメートルの所で被爆しました。自宅は爆心地から800メートル離れた今の江里町で、兄弟5人がそこで被爆しました。
 家の外にいた6才の妹は、真黒焦げになり、すでに死んでいました。原爆投下から一週間たった8月16日、一番下の弟が死にました。母は寝込み、父も兄弟の看病で手が離せません。それで、私は自分の弟を一人で火葬しました。
 弟は関節をグギグギいわせながら燃えていきました。その燃え上がる真っ赤な炎が夕陽と重なり、私の流れる涙も赤く染まるのがわかりました。この弟は太平洋戦争が勃発した昭和16年12月8日に生まれ、終戦の翌日に死にました。この4才の弟は、平和な日を一日も生きることができなかった、かわいそうな弟でした。翌8月17日には8才の弟が死に、次の8月18日には10才の妹が死んで行きました。毎日毎日一人、また一人と死んでしまいます。

 8月19日、父も母もいない時に、14才の姉が死にました。
 この姉が死んで行く少し前に、すぐ横の池に赤トンボが飛んで来ました。赤トンボは、池の真中の棒の先に止まりました。
 人も、動物も、昆虫も、植物も、全てが焼き殺されてしまいましたのに、動く物が見えた。
 「………姉も私も生きられるのだ、生きることが出来るのだ。………」
 赤トンボに近寄ろうと池に入ったとき、姉が私を呼びました。池から上がり、「ネエちゃん何?」と言うと、姉は手と足がしびれるから摩ってくれと言います。姉の身体にはドス黒い斑点が出ています。やっぱり姉も死んでしまうのだと思っているとき、突然姉が言いました。
 「日本の国は戦争に勝っているね。」
 「………ウン。」と返事をしますと、いきなり立ち上がって両手を上に挙げ、
 「天皇陛下万歳」と言って倒れて死にました。

   戦争が憎い
      原爆が憎い
         核兵器が憎い

 今私は、被爆の体験を若い人に語り継ぐ証言活動を続けています。核廃絶を求めるには永い年月が必要です。しかし、若い人々、特に高校生の平和への活動の気運が高まっています。これからも核兵器廃絶と平和のための運動を、若い人々と共に行動していくことを被爆者の一人として誓います。

平成13年8月9日 被爆者代表  池田 早苗
長崎市の記念式典での「平和宣言」と「平和への誓い」をご紹介します。