被爆60年 いま年語り継ぐ
子どもたちにも励まされて
田中安次郎さん(63) 長崎市矢の平二丁目


 被爆者ではあっても、「核兵器廃絶のことなどずっと無頓着でした」。長崎市の田中安次郎さんはこう振り返ります。
 それが二年ほど前、シルバー人材センターで原爆資料館の駐車場管理をしていたときです。
「原爆であんな悲惨なことになったのに、日本はなぜ戦争したんですか」。資料館を見学した修学旅行の中学生の質問に、答えることができませんでした。
 「被爆者なのに何も知らず、何も言えず、これでいいのか」と自問する毎日。そんなとき「被爆を語り継ぐ人になってください」と呼びかける、「平和案内人」募集のビラを目にしました。
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 被爆したのは三歳。爆心地から三・四`、市内中川町の路地で遊んでいたときでした。
 ものすごい光。空は見たこともない紫色でした。家の窓ガラスは飛び、なぜかタタミが立っていました。近所のお姉さんが顔に大ヤケドして、お母さんが泣きながら看病していました。とぎれとぎれですが、はっきり憶えています。
 あれから六十年。いっしょに被爆した妹が病弱だったのに比べ、「健康」でしたから現役のときは健診にも行きませんでした。被爆者への偏見も強かったからです。「心のどこかに、隠そう、忘れようという気があったのかもしれんですね」。
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 この四月、応募した「平和案内人」の活動が始まりました。研修で、知らなかったことをいっぱい学びました。仕事は、原爆資料館や被爆遺構の案内・説明です。
 薄暗い資料館。「十一時二分で止まった柱時計」「人影が焼き付いた壁」「被爆前後の、爆心地周辺の比較写真」など、衝撃的ななまの展示物が続きます。長崎言葉で、自分の体験や思いを付け加えながら解説します。
 「見るだけでなく想像してください。|あの家の人はそのときどうしたんだろう。あの人影の人はどうなったのか」と。そこには市民の、無数の家族の生活があったのです。ずっと人間が生き続けていたのです。|ガイドをしていて一番力を込めるところです。
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 「案内人をして若くなりましたよ。自分にこんな積極的な一面があったのか、再発見です」。
 それに全国の子どもたちから、「話をしてくれてありがとう。原爆の怖さを知りました」と手紙をもらいます。もう五十通にもなります。一番の宝物です。
 このごろ、「展示物が語りかけている」と感じるときがあります。案内人は犠牲になった被爆者の声の代弁者なのです。
 「私が案内人をしたからといってすぐ核兵器がなくなるとは思えませんが、大事なのは、平和につながる一歩をふみだすことなんですね」。
  (長崎県・田中康)

「しんぶん赤旗」2005/7/28