2005年NPT再検討会議への要請行動に参加して
ニューヨークにこだました「世界に平和と核兵器廃絶を」のこえ
      核兵器廃絶に希望と確信

                     非核の政府を求める長崎県民の会
                             事務局長 川口 龍也

「戦争は二度としないようにたのんできてください」
 核兵器廃絶地球市民長崎集会実行員会の10人のメンバーの一員として、初めて訪米した私は、4月30日夕ぐれ、小雨降るニューヨークに着きました。
背にしたリュックの中には、国連へ提出するために訪米直前まで県内の市町村長・議長及び地元自治会のみなさんにお願いし、収集し続けた、伊藤長崎市長も賛同されている「『いま、核兵器の廃絶を』ヒロシマ・ナガサキをくりかえさいないために」の「署名綴」を大事に収めていました。 
「核保有国政府は、ただちに核兵器廃絶の実行にふみだすこと」、「すべての国の政府は、核兵器廃絶国際協定の実現のために行動すること」を求める「署名」には短期間のうちに大勢の方々が応じてくださいました。「戦争は二度としないようにたのんできてください」と多額の募金をいただいた高齢の被爆者、「孫のためにも核兵器をなくすためにがんばってきてください」と署名を集め募金を寄せられた被爆者や主婦など、私を派遣した非核の政府を求める長崎県民の会(略称「非核県民の会」)はもちろんのこと、本当に草の根からの大勢の方々の支援に後押しされて、その責任の重さを痛感すると同時に私のバックには、これだけ大勢の方々がおられるのだという自信をもって、元気に活動してきました。

4万人の大行進・大集会に国際社会の「平和と核兵器廃絶」の巨大な流れを実感
 早速、翌日の5月1日から活動を開始しました。朝からまづ、ホテル近くにある国連本部ビルの下見をしました。テレビ等でおなじみの外観でした。ここで世界を動かす政治・平和・人権・環境問題等が鋭く論議されており、この国際政治の舞台に、はるか遠い日本から来たのだと思うと充実感と緊張感が走りました。
 いよいよ、正午過ぎから国連本部ビル近くの集合場所から大集会会場のセントラル・パークまで約3キロ、マンハッタン街の広大な車道を大行進が始まりました。ゼッケンを着け、色とりどりの横断幕やのぼりを手にした世界平和市長会議やNGOなど大勢の海外代表とともに、伊藤長崎市長、谷口稜嘩さん下平作江さん等を先頭にした、最前列の行進団の間に入り、「ノーモア・ナガサキ・ヒロシマ」長崎代表団の横断幕を掲げ、「世界に平和と核兵器廃絶を」と意気高く唱和しながら行進しました。
 私たちに気付かれたイギリスのレベッカ・ジョンソンさんが、日本語で「原爆許すまじ」を歌い出し、私たちは大変感激して、一緒に歌いながら会場へ入りました。私は行進しながら沿道の米国市民等に「長崎から来ました。チラシをぜひ読んでください」と言って、「ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」の英文の被爆者母子カット入りチラシを手渡しました。ほとんどの市民等が受け取り、「あと一枚ほしい」という市民もいました。この大行進と大集会は、ニューヨークのテレビや新聞でも大きく紹介されました。
 私はこれまで、長崎、広島の原水爆禁止世界大会には、50年近く参加して来ました。大会では海外からの多数の参加者にも接してきましたが、ニューヨークの大行進・大集会の米国本土以外からの数百数千余の姿、これまで私が見たこともなかった、型破りの賑やかで楽しく、ものすごい熱気と迫力に圧倒され、本当に感動しました。
核兵器廃絶地球市民集会の「非核自治体フォーラム」のスピーカーをされたた、スチュワート・ケンプ・英国非核自治体協会事務局長などとも再会しました。世界諸国から結集した、「平和と核兵器廃絶を」の巨大な流れと米国市民の平和を望む姿に接して、いま、NPT再検討会議は、核超大国・ブッシュ米政権の逆流・妨害によって困難に直面していますが、このエネルギーを発展させて行くならば、必ず「世界の平和と核兵器廃絶」の希望は、達成されるとの確信を実感することができました。

 「いま、核兵器廃絶を」の署名500万をドゥアルテNPT議長に手渡す 
 「署名」は出発直前に、緒方冨昭・新長崎市議会議長、生月町議長から寄せられました。あわせて102市町村長・議長の「署名」は、日本はじめ世界60ヵ国から寄せられた500万の「署名」目録とともに、4日、国連総会議場で、ドゥアルテNPT議長に伊藤長崎市長、田中日本被団協事務局長、高草木日本原水協事務局長ら代表から手渡されました。
7日、帰崎すると新五島市議会議長ほか3町議長から「署名」が寄せられていました。ニューヨークでの行動に呼応して、長崎でも核兵器廃絶への波紋が広がっていることの現われだと嬉しく思いました。

NPT再検討会議を成功させるための真剣な討議を傍聴
 2日朝から国連本部内を自由に通行できる「通行証」を発行してもらうために、日本から来た大勢の方々と午前10時ごろから2時間近く行列して、ようやく手にしました。
午後1時15分から国連本部ビルの8号室で、「中堅国家構想によるフォーラム」、「NPT再検討会議を成功させる方法」が開かれるというので、急いで会場に入りました。数十人程度の会場では、ダグラス・ロシェ・中堅国家構想議長を中心に、セルジオ・デ・ケイロス・ドゥアルテ・NPT再検討会議議長、マリアン・ホッブス・ニュージーランド軍縮大臣等によるNPT再検討会議を成功させるための真剣な討論が展開されました。討議が始まる頃には、傍聴席は満杯になり、床に座って傍聴するなど会場内は、緊迫した雰囲気が漂っていることを肌で感じました。

徴兵を拒否し、平和と核兵器廃絶を願う米国市民と交流
 4日朝ホテルを出て、2番目の目的地であるオハイオ州デイトン市に向かいました。飛行機で移動しましたが、米大陸の広大さを体験しました。
ホテルからタクシーで約1時間、トウモロコシと肉牛が主な産物という平原を左右に見ながらこんもりとした森に囲まれたウィルミントン大学広島・長崎ピース・リソース・センターを訪問しました。ダニエル・ディビアシオ学長、ジェームズ・ポランド館長、市民ら十数人が迎えてくれました。
 予定を大幅に遅れて午後3時ごろ到着した私たちに、昼弁当が準備されており、心温まるなかで被爆体験などの交流が行なわれました。私が特に関心を持ったのは、世界大戦時に徴兵を拒否し、戦争反対を貫いてきた老市民の話を聞いたことでした。また、元教授は、山里小学校を訪問し、被爆の惨状を知った。その時、元気に運動場を走り回っている子どもたちの姿を見て、平和の大切さを痛感し、泣けてしかたがなかった。と語り、長崎にはまた、ぜひ行きたい、と話しました。
 保守的と言われているディトン市に、早くからピース・リソース・センターがあり、被爆の惨状が展示され、また、戦争に身をもって反対して、平和と核兵器廃絶のために、献身している市民が存在していることを知り、日本と同じく米国市民の誰もが、平和を心から望んでいる、という共通の思いに触れたことは、大きな収穫でした。大学生は丁度、試験期でしたが、交流と館内見学は午後6時過ぎまで続き、館長は自ら運転してホテルまで送ってくださいました。

お前が「ボックス・カー」か。恐怖と怒りに身が震える
 5日朝、ライトパターソン空軍基地の一角にある米国空軍博物館を訪問し、チャールズ・メッカフ館長に面会し、「被爆写真集」(長崎市作成)を贈呈しました。次いで、「被爆の展示」を申し入れましたが、「博物館の目的は、軍の歴史を紹介することにある」ので展示はできないと拒否されました。しかし、今後、「資料としては受ける」と応対しました。
 広大な博物館の入り口近くに、長崎に原爆を投下したB29機「ボックス・カー号」77は、弾倉を開いたままの巨大なジュラルミン色の機体を不気味に横たえていました。その機体を目にした瞬間、あの時ことが一瞬、よみがえり身体が恐怖に震えました、同時に、「お前が、ボックス・カーか」という怒りがこみ上げてきました。原爆投下時の長崎市内の全景の写真が一枚だけは、展示してありましたが、「原爆の投下によって何百万人もの命を救った」と原爆投下を正当化し、世界大戦に勝利した誇らしげな説明版があるだけで、被爆の惨状は一切紹介されてはいませんでした。この博物館は米国の歴代戦争勝利記念館・戦争美化記念館という印象を強くしました。
 しかし、ボランテァ・ガイドのベトナム戦争で生き残った元軍人に、被爆した西坂国民学校の写真を見せ、ここに自宅があったが、燃えてしまった。このようなことがないように、「平和と核兵器廃絶のために、力をあわせましょう」と話かけると、笑顔でうなずき、握手してくれ、写真も一緒に写ってくれました。この博物館のなかでも、個々の市民は、誰もが戦争に反対し、平和を望んでいるのだということを知りました。

ディトン市の平和博物館責任者が「原爆展の開催を約束」
 6日は朝からディトン市役所に市長を表敬訪問、市立図書館内の平和博物館見学等、精力的に行動しました。突然のお願いにも拘わらず、平和博物館を開設されたクリスティン・ダルさんと連絡がとれ、急遽6時ごろホテルへ来ていただき、ロビーで交流しました。「どのような活動をしていますか」と聞かれたので、被爆体験を語り、「被爆国・日本政府が米国と一緒になって、核戦争をしないように活動しています」と話すと、「日本は軍事費がそんなに増えているのですか」と驚かれ、「憲法改正問題」にも関心を示されました。
 今度の訪米での最大の収穫の一つは、ディトン市で「原爆展の開催ができないでしょうか」との申し出に応え、クリスティン・ダルさんが心よく「原爆展開催の約束」をしてくださったことです。代表団はお互いに、はるばるとこの地までやってきて良かったと、本当に心から喜び、感謝の気持ちで一杯になりました。

決意新たに被爆地長崎から「核兵器廃絶のこえ」を全世界へ訴え続けよう
 NPT再検討会議は、自国の国益のみを主張し、当初から国際社会に対抗して「2000年合意」を死文化し、「新型核兵器開発」は近代化だとうそぶいて、あくまでも「核兵器独占に固執」して再検討会議に臨んだ、米ブッシュ政権の野蛮で横暴な妨害・障害によって、「最終合意」文書を見ることなく27日に閉幕しました。非常に残念な結末となりました。心の底からの強い憤りを禁じえません。
 私は長崎県庁職員だった20歳から今日まで約50年間、生き残った被爆者の一人として、原水爆禁止・平和、被爆者運動に微力を尽くしてきました。アメリカに行くのは、今回が最後だとの思いで、初めて訪米しました。アメリカには「テロにおびえ、1万発以上の核兵器を保有していながら、100円のガスライターの持ち込みも許さない、人権無視の軍事的強権政権」と「平和と核兵器廃絶を望んでいる多くの市民」の2つの顔があることを見てきました。
 また、アメリカから被爆国・日本を見るとき、唯一の被爆国の政府が国連の場で、米国追随の外交から決別して、本気で核兵器廃絶の先頭に立って、国際社会を主導的にリードすることができるならば、核兵器の廃絶は出来ると痛感しました。
 国際的な反核平和の巨大な流れと米国市民との共同を広げ、日本国内での草の根からの世論と運動を発展させるならば、必ず「世界の平和と核兵器廃絶」は実現するとの思いを強くしました。「長崎を最後の被爆地に」するために、決意を新たに全世界へ訴え続け、そのための運動をねばり強くすすめて行きましょう。それが、全人類にたいする長崎の崇高な歴史的な使命ではないでしょうか。
 この度は、歴史的なNPT再検討会議へ参加させていただきまして、本当にありがとうございました。厚くお礼申し上げますとともに心から感謝いたします。
以上、簡単ではございますが、報告とさせていただきます。

                              2005年5月29日 記

NPT会議に参加した川口龍也さんの報告手記の全文を紹介します。

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