連載記事
被爆60周年 
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その2

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 長崎 居住地で差別
  峰松巳さんと山崎ツモさん

 「県庁坂から北を見ると、遠く、浦上まで見わたせ、まともな建物は何もなかった」|。終戦で福岡の航空隊から古里の旧深堀村(現長崎市深堀町)に帰る途中、峰松巳さん[写真右](78歳)‖同町在住‖が目撃した被爆直後の長崎は、破壊され、燃え尽きくすぶる、地獄絵そのものでした。
 長崎港から南へ七`、豊かな漁村、深堀も同じでした。爆心地から十・三`といっても海を隔てただけの港の入口。せん光と爆風で家の壁は崩れ、ガラスは飛び、ガレキの山でした。
 背中に熱線をあびた山崎ツモさん(写真左)は当時二十六歳。「ヤケドの痛みで何日も眠れない日が続いてね。ショックで母乳が出なくなって、重湯で赤ちゃんを育てたよ」。まわりでは脱毛や下痢、嘔吐の急性症状に苦しむ人が多く、毎年原因不明の病気で亡くなりました。
 峰さんの家族は、母とすぐ下の弟が自宅で、妹四人と末の弟が近くの防空壕の前で被爆。頭痛や血が止まらない症状にずっと苦しめられました。
   ◆
 一九五七年、被爆者の病気やケガに国から医療費が支給されることになりましたが、深堀は対象外にされました。被爆地域は原爆投下時の旧市内、爆心地からの半径が南北十二`、東西七`といういびつな形に決められたからです。香焼や東長崎なども半径十二`の同心円内なのに被爆地域外とされました。六万七千人が国の援護から取り残されたのです。
 そのときから峰さんは、「こんな差別は許されない」と三十数年間、被爆者らとともに被爆地域の拡大・是正の運動を使命にしてきました。
 九九年に長崎市が実施した未指定地域の証言調査で、「被爆体験者」(被爆地域の被爆者と区別するための呼称)の八割が、原爆投下時の被災状況や現在の健康状態を証言しました。被爆による心的外傷後ストレス障害(PTSD)が24.7%の高い比率で現れました。
   ◆
 〇三年四月、被爆地域の拡大・是正に背を向け続けてきた国の厚い壁に穴があき、「被爆体験者」の「精神的要因に基づく健康障害」が治療費支給の対象になりました。 峰さんのすぐの妹・久子さんAMは、「高血圧や頭痛など、毎月四千円以上かかっていた病院代がいらず、本当に助かります」と喜びました。ところが、長崎市千々(ちぢ)町に住む妹と、佐世保市の弟には適用されません。
 新制度の医療費支給には、「いまも十二`圏内に住んでいなればならない」との居住地要件があります。深堀に隣接する三和町に住む岩永千代子さん@Lも、「深堀で被爆したのに、となり町に住んでいるだけでなぜ適用外なのか納得いかない」と憤慨します。
 「五人の妹と弟は同じ防空壕で被爆しました。被爆者はどこにいても被爆者です」と峰さん。「一歩前進しましたが、この矛盾が解決されない限り僕の仕事は終わらない」と語ります。
 厚労省は、居住地要件撤廃の声に押され、支給対象を県内居住者まで広げようとしています。一方で、対象となる疾病・疾患を大幅に制限しようとしています。
 被爆者援護法の全面適用や核兵器廃絶の運動、「被爆体験者」の医療費支給の居住地要件撤廃を求める運動はこれからも続きます。