長崎 集団訴訟に真っ先に
   青山トシ子さん(長崎県五島市在住)


 「死ぬのを待たれているようで悔しいんです」、こう語る青山トシ子さん[写真前列中央](76歳)。長崎県五島市に一人で暮らしています。 原爆症の認定を求める集団訴訟に真っ先に加わりました。しかし、一緒に参加した市川藏男さん(当時七十一歳)が、提訴後亡くなったことに大きなショックを受けました。「からだは自由にならないけど、何としても勝利したい」との思いを新たにしました。
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 これまでどうしても足が向かなかった長崎市の平和公園に初めてのぼりました。びっくりしました。
 「私が被爆した場所は、すぐそこだったんですよ」。
 爆心地から五百bしか離れていない長崎大学医学部(当時の同医大附属厚生女学校)で被爆した青山さん。爆風に吹き飛ばされ、崩れた床といっしょに地下室に転落しました。
 気が付くと、大小のガラス片が頭から胸、腹、足まで、右半身のいたるところに突き刺さり、血がしたたり落ちていました。十六歳、「離島の女医になりたい」と寄宿舎生活を始めて四ヵ月目のことでした。
 ガラス片の摘出手術を繰り返しますが、傷が塞がるのに何年もかかります。傷跡はうずき周辺のむくみは消えず、いまも痛みや吐き気で眠れないこともたびたびです。
 「放射線の影響で白血球が減り、治りにくい」。治療を受けている医師の判断で原爆症認定を申請したのに、一方的に「医療の必要を求めない」と却下されました。治療の現状を訴えて異議申し立てしたら、今度は「原爆に起因するものでない」と一蹴されました。
 「『ガラス摘出の後遺症』を原爆のせいと認めてほしいだけなのに、被爆者本人の話も聞かず、身体も診ず、なぜこんないい加減な結論が出せるのか。国会にいって証言したい。原爆が憎い」。青山さんの言い分です。
 「被爆者には奇形児が生まれる」との噂が広がるもと、青山さんは「被爆した者は一人で生きていくほかないと覚悟しました」。紡績工もお手伝いさんもしました。編み物も勉強しました。
 「幸い、周囲の人たちに恵まれたから生きてこれたんです」。
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 あれから六十年。原爆はなくなるどころか、同じアメリカの手で、また使われようとしています。こうした現実が、いまも体内にガラス片が残る青山さんの苦しみに拍車をかけています。
 「世界の首脳たちに、もっと被爆者のなまの声を聞いてほしい」「原爆の悲惨さを知って考えてほしい」と訴える被爆者たち。青山さんは「私は原爆のため、女性に生まれてきた意味をゼロにされてしまいました」とうつむきます。
 「日本の政府には、被爆者がどんな思いで生きてきたか、分かってもらえないのでしょうか。被爆国なのに、アメリカといっしょになってまた被爆者をつくろうとでもいうのでしょうか。死に絶えるのを待っているかのような被爆者行政、何の反省も感じられません」。
 赤い手編みのセーターが似合う青山さんの体が、また震えました。
(つづく)

連載記事
被爆60周年 
この声届けたい
その1

しんぶん赤旗」に2005年3月21日と22日付けに連載された、特集記事の中で長崎県関係分を掲載します。

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