昨年の原水爆禁止世界大会が、「被爆六十周年(二〇〇五年)を核兵器廃絶への転機の年にしよう」と、新しい国際署名「いま、核兵器廃絶を|ヒロシマ・ナガサキをくりかえさないために」を呼びかけて九ヶ月、いま運動の推進と飛躍が求められています。被爆地長崎での取り組みをみました。
    ◆
 長崎原爆が投下された「浦上の丘」、祈念像が建つ平和公園(長崎市松山町)で、「核兵器をなくす署名を」と呼びかける声が響きます。
 年金者組合・長崎の仲間たちが自主的につくった「6・9運動部会」のメンバーです。原爆が投下された八月六日と九日にちなみ、毎月「6」と「9」が付く日の午前九時から十一時過ぎまで署名に立ちます。月五回から六回、集まるのは六人であったり、十人だったりさまざまですが、この八カ月で集めた署名はすでに一万三千人を超えました。
 「核兵器なくせ」の全世界の声が、これまでの核兵器使用を止めてきたが、それがまた危なくなっている。「とにかく続けることが大事だ」と、励まし合ってがんばってきました。
    ◆
 メンバーで最年長の椿山春四さんさんは、写真パネルの説明をすすんで引き受けています。たくさんの被爆者が救護所に担ぎこまれ治療を受けている被爆直後の写真を説明していたとき、一人の男性から、「必死でがんばっている看護婦は私の妻です。いまも元気です」と丁重にお礼を言われたこともあります。
 「原爆は絶対なくさんばいかんです」と長崎ことばで訴え、だんだん声が大きくなるのは福永春二さん。爆心地から1.1`の三菱兵器製作所で、十六歳のとき被爆しました。いまも、右ひざの横にある深い傷が時折痛み、「水をくれ、助けてくれ」と叫ぶ人や、真っ黒に焼け、男も女も分からない死体でいっぱいだった浦上川の光景を思い出します。「この運動だけは命ある限りやらんば、死んでも死に切れん」「でも生きがいですよ」と、少し笑顔が戻りました。
 富沢憲男さんは、「6・9は核兵器廃絶の日」と決めています。
 天皇のために命をと教育され、その結果が敗戦と広島・長崎への原爆でした。これからは平和になると思っていたのに、核兵器がどんどん増え続けていると知り、「腹が立ち、何とかせんばいかん」と、欠かさず署名にでかけます。
 五月晴れとなった連休明けの六日には、観光客より早く松谷雪子さん、松谷孝さんら六人が顔を見せています。わずか十分ほどで、組立て式のテーブルが手早く広げられ、署名用紙と原爆写真パネルが並べられました。
 署名した後には、核兵器廃絶とかかれた横断幕を背景に「いっしょに写真を撮りたい」とか、「募金をしたいのですが」と申し出る人も少なくありません。
 ブラジル・サンパウロから来たという日系二世の岩佐テレーザさんは、「ごくろうさま」といいながら駆け寄って署名した後、「日本は軍隊もたないというのになぜイラクに行ったのですか。小泉さんはおかしい、変ですね」と話していました。
    ◆
 新しい国際署名に取り組むメンバーの平均年齢は七十七歳、夏場の暑い日、冬の風の強い日などはたいへんです。まわりの人は、「からだば用心せんば」と気を使います。しかし、雨はどうしようもないけど、「暑いからもうやめよう」という人はいません。
 それより、米国がブッシュ政権になり、それにいいなりの小泉内閣になって、「またどこかで、原爆が使われるんじゃないか」という不安の方が強いのです。
 そして口をそろえていいます。「この署名は普通の署名とは違うとばい、国際署名ですよ」、「被爆国の国民が、被爆地の者ががんばらんば署名は集まらんですよ」と。だから、誇りをもって仲良く、楽しく、粘り強くがんばれるのです。
 長崎県原水協の片山明吉事務局長は、年金者組合・長崎の「6・9運動部会」の人たちの活動に、「核兵器廃絶に執念を燃やして、繰り返し取り組んでおられることに敬服しています。こうした活動を被爆地からの大きな流れにして全国に発信したい」とエールを送ります。新しい国際署名に、日本で最初に署名した伊藤一長・長崎市長の決意を草の根から支えるため、「市民過半数早期達成」をめざして被爆地の運動を推進したいと決意を語っています。
「いま、核兵器廃絶を」国際署名
ねばり強く、そして仲良く「命ある限りやらんば」
             年金組合・長崎
「しんぶん赤旗」2004/5/10田中康記者