原爆で重症を負い、一昼夜放射能にさらされたのに

 爆心地から約一`の長崎市茂里町。炎に包まれた路上のトラックの下で一昼夜、放射能にさらされ続けました。
 骨折した左大腿骨、肉がえぐりとられた右太もも。のどが渇き、声もでないまま横たわっているほかありませんでした。小幡悦子(74歳)さんの狂わされた人生の始まりでした。
  


 「人生を変えた足のケガを『原爆のせい』と認めてほしいだけ」と国に訴え続ける小幡さん。最初の申請は「放射能に起因するとは推定できない」との理由で却下、異議申し立てには三年たった今も返事がありません。
 小幡さんは被爆当時十六歳、三菱兵器製作所で挺身隊として働いていました。空襲警報が解除され作業にかかろうとした瞬間に閃光が走り、全身が大きく揺れました。
 二階にあった作業場は床ごと落ち、気が付いたら両方の太ももはガレキに挟まれ、逆さまにぶら下がっていたのです。やっと助け出されトラックで大学病院に向かったもののすぐ立ち往生。車の下で熱風と暑さをさけるのが精いっぱい、やがて動けなくなりました。
 それから三年、骨折した大腿骨の接合手術だけでも三回。放射能に侵された骨はつながらず、何のキズもなかった両足の膝(ひざ)の下が化膿し始め、いくつもいくつも口が開き膿が出ました。やがて骨まで変形し、膝は硬直しました。
 育ちざかりの少女の骨折治療を困難にしたのは、爆心地の直近で放射能にさらされ続けたことでした。「被爆者が、しつこい化膿性疾患に悩まされてきたのは今では常識ですよ」「骨が変形するほど蝕まれた足が、私を苦しめ続けたんです」と、五十数年を振り返る小幡さん。
 終戦の翌年に父が亡くなり、姉の薄い給料だけが生活の糧でした。母は自分の着物を、新鮮な魚や米に換えて食べさせてくれました。
 「そばに母がいてくれたから生きてこれたんです」という小幡さん。松葉杖で歩けるようになると編み物で生活をたて、その後「被爆者の店」で働くことになりました。朝七時前からゆっくりゆっくりの出勤でした。「足が痛く苦しいことも多かったけど、母に苦労かけたから働くのがうれしかった」と、彼女の顔に笑みがこぼれます。
 つらいのは、お客さんの訪問があっても座ってお茶を出せないこと。電車やバスに乗り、席を譲ってもらっても足が曲がらないから座れません、いつも出入り口のそばで立っていました。
 「階段がダメなんですよ。それが歳とともにひどくなってね。友だちが遊びにおいでと誘ってくれるんだけど…」といい、「はがゆいです」と繰り返します。
 原爆でケガした人の症状はみんな違います、「放射能の影響はない」とだれが言えるのでしょうか。小幡さんは、「死んでから『原爆症』と認められても意味がありません」と提訴への思いを語りました。
命の炎燃やして(3) 
原爆症認定訴訟の原告たち
 長崎市在住 小幡悦子さん
「しんぶん赤旗」2003年5月31日