被爆の実相を取材し記録する被爆二世記者の手記 
 「あの日」の地獄絵を描く子たちへの思いに心動かされて 長崎県 田中康記者
 この夏、例年になく被爆者と向き合いました。原爆症認定を求めて集団申請にふみきった被爆者、被爆の日の光景を絵に残した人、日本共産党員として生きる被爆者。さらに原水爆禁止世界大会に参加した被爆者たちです。

記憶をたどり
 長崎市などの呼びかけで、「被爆者が描く原爆の絵」展が八月末まで開かれました。幼少のころの脳裡に刻まれた「あの日」の光景を、ありのままに描き残そうという試みです。三回通いました。
 長さ一bを超える大きな絵から、大学ノートに色鉛筆で描いた小さなものまでさまざまです。当時の足跡をマップにして被爆の場所を特定した絵や、目撃した情景を克明につづり添付しているもの…。下書きをしては消し、また描き直しただろう被爆者の姿が目に浮かびました。

 長崎市内のディケアに通う八十四歳の女性は、「防空壕が水びたしで、幼な子二人を連れて何日も竹やぶの中で過ごした」と、被爆直後の記憶を描いて応募しました。ところが、息子さんがどんなに誘っても、展示してある自分の絵を見に行こうとはしなかったといいます。
 自分の絵は見たくないけれども、「このままではいけない、何かを残さなければ」「少しでも原爆の恐ろしさを伝えなければ」との思いが、「あの日の絵」を描かせたのでしょう。
 今残っている被爆者の多くは当時五歳から十五歳くらい。幸いにして生きのび、成人し、家族を持ち、地域の担い手として社会に貢献してきた人たちです。そうした人たちが四十歳を超え、五十歳を過ぎたある日、突然病魔に襲われます。取材の中でそうした被爆者があまりに多いのを知り、大きな衝撃を受けました。
 「この年まで元気でよかった」と思えるようになった矢先にガンと宣告され、二度、三度と手術した人も少なくありません。そうした被爆者は病気のあらわれ方が特異で、周囲の人と違うことに気付き、「その日から原爆とのかかわりが頭から離れず、不安でたまらない毎日になった」といいます。
 原爆症認定を求める人たちは、「お金以前の問題。この病気が原爆のせいだということを国に認めてほしいだけ」と、このまま黙ってはいられないとの思いを共通して語ってくれました。
 被爆者の一人ひとりが、戦時の出来事として曖昧にできないあの地獄絵を目撃し、親友たちを目の前で失った苦しみや悲しみを抱えています。被爆体験は、被爆者の数だけ存在します。だからこそ、記者として一つ一つの被爆の実相を取材し、記録して、その力で核兵器廃絶を阻む勢力とたたかうことが求められているのだと痛感しました。

 多くの党員被爆者は、自らの被爆体験を背負いながら、平和のうちに豊かに生活できる社会をめざす変革者として、核兵器廃絶運動の先頭に立ってきました。「連載・党員被爆者の思い」の取材は、その長きにわたる苦労の一端に触れるものでした。

私も被爆二世

 「語り部」に情熱を傾ける内田保信さんは、自らの被爆体験を語るだけでなく、「核兵器をなくす運動は地球を救うこと」と、若者に平和運動への参加を意識的に呼びかけていると繰り返しました。返ってくる大きな反応が、さらに「語り部」の喜びや確信になると教えてくれました。
 今も教え子に慕われる元教師の林田菊二さんは、「あの道を通れば、あの場面が浮かび、原爆のことはとても話せなかった」との思いを率直に話してくれました。その後、被爆地から核廃絶を訴える「アピール」署名に党員として必死に取り組み、「やっぱり世論づくりだ。子どもたちにあの体験をさせてはならない」と思えるようになったことを語り、心動かされました。

 私も被爆二世党員。私は戦後生まれですが、長姉は爆心から〇・八`、城山小学校のすぐそばで爆死しました。二十六歳でした。二十年ほど前、犠牲になった彼女の名前を国際文化会館(現・原爆資料館)で発見したとき、改めて、身近に長崎原爆を実感しました。私もまた、被爆の実相に一歩でも近づき、核兵器廃絶運動の一翼をしっかり担わなければと思います。

 八月九日は多忙でした。原水爆禁止世界大会で、みんなで歌う「原爆許すまじ」にまた涙しながら、核廃絶への決意を新たにしました。
 長崎市の平和式典では、米国の核政策を厳しく批判した平和宣言をしっかり聞きました。式典が終わると、被爆者や遺族が平和祈念像の前に設けられた焼香所に詰めかけます。私はカメラを向けました。ファインダーを通して見るその一人一人の目は、涙にぬれているだけではありません。
 「戦争はゴメン」「原爆はいらない」としっかり語っています。何の響きも感じなかった小泉首相の「ことば」より、何倍も強い心からの叫びが聞こえるようでした。
「しんぶん赤旗」9月2日