左手の付け根からひじに刻まれたケロイド。修学旅行生に、「このヤケドの跡をさわってみてください」と、やさしく語りかける内田保信さん(74歳)語り部を始めてもう五十年になります。

 「さわってもらうのは、『語り部』としての話の一部なんです。『かたい』とか『つっぱってる』とかいって話に聞き入ってくれます」

 自分のウデを見せて被爆体験を語り、「二度と核兵器を使わせてはならない」と訴え、最初にビラを配ったのは朝鮮戦争の時。原爆症の影におびえながら、五人兄弟の長男として家計を助けるため、家庭教師や労働組合の書記として働いていたころです。「もう五十年も前ですが、語り部の走りだったと思います」
 日本共産党の活動に自らの人生を重ねていた時期でした。
 被爆当時は十六歳、学徒動員として三菱長崎造船所の機械工場で働いていました。その日は、親友の中村君といっしょに久々の休み、爆心地から一・四`離れた彼の家の縁先で「ゲタつくり」をしていました。ものすごい光に包まれ、目の前は真っ黄色。金槌のとがった方で頭をキーンと叩かれたようで、宙に浮き、何メートルも飛ばされていました。
すぐそばで鋸を引いていたはずの中村君は、なぜか、倒れた屋根の下敷きになっていました。全身ヤケドで、夜中に「かあちゃん」と呼びながら目の前で息絶えました。彼の父も「梅干が食べたい」と言いながら亡くなりました。

 家にも連絡が取れないまま、汽車で諫早に運ばれた私は、ワラのムシロに寝かされ、左背中とウデのヤケドがひどく、その上をウジ虫がはい回る毎日でした。

 二十歳過ぎたころ白血球が急増しました。「妻も被爆者、生まれてきた息子は早産で高熱が続き、生死の境をさまよいました。腹の底から原爆を憎みましたね」。

 何とか生き延びることができましたが、米国の核兵器使用の危険な動きが問題になるたびに暗たんとした気持ちになります。十二年前の湾岸戦争の時は「ヒロシマ・ナガサキアピール」署名を必死で集めました。

 六十歳過ぎてからは、語り部の仕事で忙しい毎日です。夏場や修学旅行生が多い季節には、ひと月に十日から十五日位はでかけます。 「うれしいのは、子どもたちから返事の手紙をもらえること」、もう一千通近くになりました。「原爆の話を聞いてつらかったけど、手に残るヤケドの印象を忘れません」「核兵器をなくすためにがんばります」などと書いてあります。

 語る話の中身は深刻なのですが、みんな生き生き目を輝かせて聞いてくれます。被爆者の声は確実に伝わっていると感じます。「そんな時、必ず中村君の最後の泣き声が聞こえます。生きていてよかった。きょうも二人で話をしてきたんだ」と思います。

 語り部としてのしめくくりは、子どもたちへの心からの呼びかけ。「話をするのは、核兵器をなくす運動をやってほしいから。これは学問と同じ位に大事なこと。核兵器をなくすことは地球を救うことなんです」と。
語り部として50年
 内田保信さん